思想地図に落選

例によってまた準備もせずにテキトーに書き殴って送りつけてしまったもので、当然っちゃ当然の結果なわけですが。推敲すらせずに応募しておきながらも、あわよくば引っかかったりせぬものかと甘い期待を寄せるのも失礼千万。知ったかぶって意味ありげなことを書こうとするより、まずはマトモに文意を伝えられることから始めなければいけなかったのだ。いい年こいて今更何を言っているのか、自分でも情けない限り。ともあれ恒例の落選作品晒しで、自己顕示欲の解消と洒落こみますかw

仮題:ポストモダン時代のメディア・リテラシー

【論文のねらいと構成】

善悪の彼岸が哲学の存在論的かつ根源的命題のひとつである以上、選良の必要を問うのは愚問である。一口に「選良」といっても、誰が何を基準にして選んだのかが明確でなければ無意味だ。

カントのア・プリオリからユングのイコンに継承されてきた「人類にあらかじめ備わっている資質」というような運命論的性善説に基づくスピリチュアリズムには、如何せんオカルト的イメージを拭えないところがある。かといってヘーゲルからニーチェに至る「不断の努力によって獲得される正義」といった実存的性悪説に基づくマテリアリズムが絶対であるはずもなく、最終的に世論の認識は相対的な価値交換の相克において決定される。

そもそも両者の対立からして個々の肉体的劣等意識を克服すべく導入されたドグマといえなくもない。そういった前提を度外視してとりあえず通常の意味合いにおいて考えるならば、選良といえば何より外見や家柄、学歴、職業といった社会的ステータスに準拠する身分差別を前提とせざるを得ない。あらかじめ選良と看做された特権階級の住人が選択したから選良とする価値観は無根拠な固定観念に支えられている。あるいはまた選良情報を得られる立場そのものが選良階級だとする考えもあるだろう。

それがインターネットの普及により崩れ去った。資本主義はデイトレーダーの出現により驚くべき変貌を遂げた。今や資本主義はニートが支配しているといっても過言ではないのだ。君主から授けられる選良の証といった発想は最早、ひげ男爵のギャグでしかない。それは政治同様に同族支配が蔓延るマスコミにおいても顕著であり、具に社史を紐解いてみれば右翼左翼といった思想的偏りを詳らかにすることも容易だ。大手マスコミは情報源を得るツールとしてのネット依存体質から逃れらなくなっている。一方でネット論壇を過小評価する。今やマスコミの選良思想は無意味なのだろうか。

高度情報化社会における選良情報とは何か。ソースの信頼性やテクストの精確性という点において、インサイダー情報がリークされるがままダイレクトにフライング発表できてしまう一部ネットニュースが凌駕している場合も少なくない。当然ガセネタも多くなりがちだ。しかし昨今の秋葉原事件では静岡県の有力者の親族が犯人ではないかというキナ臭い妄言が実しやかにテレビ報道されてしまう失態もあった。また毎日新聞英語版で事実無根の破廉恥極まりない日本の実情が世界に配信されたケースもある。このことから大手マスコミとネットニュースの間に大きな溝はないともいえるだろう。2ちゃんねる管理人・西村博之氏の「真実を見極められる判断力を持った人間にしかネットを使いこなす資格はない」という言葉もある。

詮ずるところ選良情報とは、大手マスコミによる大本営発表とネットによる巷間の噂話が渾然一体となり、嘘か真か揚げ足を取り合ういたちごっこの乱痴気騒ぎを経て次第に自ずと浮かび上がってくる泡のようなものなのではないか。ネットとテレビ新聞が速さを競うのを尻目に時間を労して丹念に取材したうえで満を持して遅れて出てくる雑誌論壇の良さもあるだろう。

中国産ウナギの危険性がどうあれ、国産のが旨い。値段が倍以上違う価値を認められるかどうか。情報だけを頼りに有難がって金を出すなんてもってのほか。グルメにおける選良とは、要は舌が肥えているか否か。本稿ではそういった出来る限り新鮮な具体例を紹介しつつ、ネット・テレビ・新聞・雑誌といった各メディアの有り様を検証してみたい。

【想定される主要参考文献】

1.バタイユ『非/知』
2.バルト『表徴の帝国』
3.マクルーハン『メディア論』
4.ベンヤミン『複製技術時代の芸術』
5.ミシェル・フーコー『思考集成』
6.ボードリヤール『象徴交換と死』
7.アーサー・W・フランク『傷ついた物語の語り手』
8.岸田秀『ものぐさ精神分析
9.東浩紀存在論的、郵便的
10.ひろゆき2ちゃんねるは何故つぶれないのか』