メッカと思春期でピコーン!

太田さんの「KOBO CAFEをメッカにしたい」発言。んでもって講談社BOX編集部発行の文芸雑誌『パンドラ』のキャッチフレーズは「思春期の自意識を生きるシンフォニー・マガジン」ときて。ネタバレになるとアレですが舞上王太郎の小説『ピコーン』は宗教と縁がなくもない。これがまさに僕にとってもピコーンだったわけで。積年のシコリが氷解した。何のことやら伝わるはずもないけれど。要は応募したい小説の構想が出来たということです。

このところ筒井康隆の話が続いていますが、彼曰く「小説のジャンル分けなんて下らない。世界的歴史的見地に立ってみれば分かることだ。シェイクスピアユゴーバルザックドストエフスキーといった文豪たちが活躍した時代は、作者と読者の幸福な関係に支えられていた。ノンジャンルという幸福な関係によって」『パンドラ』掲載の新人小説を読んでみて、講談社BOXに小説の未来を感じました。

純文学とエンタメ論争。中間小説なんて呼び名も今は昔。ラノベが話題となっています。西尾維新いわく「ジャンルはレーベル」という発想。これってかなりの箴言ではないか。英語圏では違うかもしれないけれど、少なくとも日本ではレーベルといえば音楽用語のイメージが強い。音楽におけるレーベルの権威は絶大だ。ブルーノートはジャズの定番だし、ナゴム系キッズなんて人たちもいたけれど、実際のところ音楽性の共通点を指す言葉ではなかったはずだ。文学におけるレーベルはどうだろう。現在の講談社文庫や新潮文庫に一貫性は感じられない。ちくまや河出となるとジャンル性が感じられる。早川や創元推理はマニアックだ。

レーベルはすなわち本の体裁だ。純文学は単行本のイメージだが、ラノベは文庫が似合う。コバルト、スニーカー、電撃。思えば本そのものが箱であり、レーベルとは即ちハコだ。どのライヴハウスで演奏するか。どの劇場で公演するか。バンドや劇団もハコで評価される。学校や企業の建物だってハコだ。ハコのネームバリューで評価される。家や車もハコだし、人脈だってハコだ。単行本とノベルスの中間に位置する価格帯の講談社BOXの装丁は、いつしかスタンダードになっていることだろう。

文芸誌が売れない昨今、売れる文芸誌を連発できている太田さんの野望は、とてつもなく大きいのではないか。ゆとり教育の余波で中高の教科書から夏目漱石が消えた替わりに赤川次郎が起用される21世紀初頭の日本。文学史を塗り替える壮大な計画が、すでに始まっている。