南無センス/異能センス〜無意味の意味を考えさせるネットコンテンツ5選

・文芸空間社メルマガ『新大学01』収録(4,000字)文芸空間社購買部

  【1】ニコニコ動画:高橋邦子「妹が作った痛いRPG」シリーズ

ニコ動で公開されているナンセンス系ギャグ動画。RPG/アクション/シューティング/アドベンチャーの要素が盛り込まれ見た目は非常にゲーム的だが、その実セオリーを無視した別種のエンタメに仕上がっている。動画前提で作られているためアクションやシューティングはゲーム上級者でも攻略不可能に感じられるものだったり、アドベンチャー要素にも謎を解くヒントがなく選択肢が無意味だったりする。

この手のゲームのようでゲームではない動画には他にも『ゆめにっき』という人気作品がある。こういったシュールでナンセンスなゲームは商業の世界にも「伝説のクソゲー」と呼ばれた『たけしの挑戦状』や『デスクリムゾン』などがある。それらは技量がなければ攻略できないマニアックさを有していたのに対し「妹痛」や「ゆめにっき」は誰でも最後まで消費できる点でエンタメ性は高い。

「ナンセンス」は「センスが無い」という意味で「センス」は「意味」を指す。仏教における「南無」は帰依することで、南無妙法蓮華経妙法蓮華経に帰依することである。そしてNUMはExcelにおける数式エラーを示す返り値。意味と無意味を隔てる要素は「価値の有無」と考えたならそれは科学と宗教の対立構造に置換できる。宗教的価値を持つ南無が科学上では無価値なエラーになる。

さて「Nonsense」と「Innocence」にはスペルこそ違えども「センス」の語が含まれている。「イノ」は「In no」でやはり「無い」という意味で双子関係に思える。ここに南無同様に漢字を宛てて「異能センス」としたい。異能はラノベの頻出ワードでもある。痛い異能者設定を指す言葉「邪気眼」などもそういうものだ。その無邪気さを子供じみたイノセンスとして肯定する事も出来る。人類史上脈々と踏襲されてきた「聖なる白痴」の系譜に連なるものとして。

  【2】2chコピペ「ここはとあるレストラン」

ある日、私は森に迷ってしまった。/夜になりお腹も減ってきた。/そんな中、一軒のお店を見つけた。/「ここはとあるレストラン」/変な名前の店だ。/私は人気メニューの「ナポリタン」を注文する。/数分後、ナポリタンがくる。私は食べる。/……なんか変だ。しょっぱい。変にしょっぱい。頭が痛い。/私は苦情を言った。/店長:「すいません作り直します。御代も結構です。」/数分後、ナポリタンがくる。私は食べる。今度は平気みたいだ。/私は店をでる。/しばらくして、私は気づいてしまった……/ここはとあるレストラン……/人気メニューは……ナポリタン……

以上はその全文である。明確なオチはなく気味の悪さだけが残る。話それ自体は失われたが非常に怖いとして題名だけが語り継がれてきたとされる「牛の首」や、詳細を知る者はいないが2ch草創期に発生したとされる「鮫島事件」に近いものかもしれない。意味/無意味の境界で価値を揺るがす怖さがある。

そもそも価値は絶対的なものではない。意味はあらかじめ備わっているものではなく後付けで付随される。時代や場所や共同体が違えば意味も変わる。文化は文字化すなわち意味化である。文字にはイメージが内包されている。「あ」の意味は発信者の属性や身振り手振りや置かれた状況などに左右される。

それは文字それ自体によって意味が伝えられたとは言えないので「あ」には意味がない。「愛」であれば意味は通じるが解釈に個人差がある。「愛」は抽象的な概念だから一元的説明が難しいので具体的に「椅子」としても思い浮かぶ椅子は人それぞれであり、完全に同じものを想定させるのは難しい。同文化に属している前提がなければ意味の共有は困難ということだ。

しかるにその反対の無意味性においても同様のことがいえる。だからここで選んだものは誰が見ても無意味なわけではない。完全に無意味なものの存在を証明する事は不可能だと思っている。だから無意味に思えるものの意味を知ることは未知との遭遇であり、世界を広げる事に繋がると考えている。見聞が広がれば一段上のステージに登れる。その先に何が待つかは不明だが、少なくとも閉塞的状況を打破することは出来るはずだ。

  【3】謎のページ「Cef Ble Casrou Shiwhepouthu Site Zhéwhashuow Ai」

"iPnoheh"のGoogle検索結果に出てくる日本語の文章は、今のところ僕のツイートだけである。URL末尾「PARALINGUA」で検索すると「What language is this, and what does it mean?」と訊いているサイトがあり、アナグラムのようだ。法則性のある暗号かもしれないが、単なる遊びかもしれない。

自動車のハンドルにおいて遊びとは運転に影響のない空転部分を指す。それは基点と左右の間に存在する。いわゆる通常の遊びも基点を逃れた狭間に位置すると思われるが、果たしてこの宇宙に基点は存在するのだろうか。便宜上そこに設定されることがあるだけで、それは絶対的なものではないように思える。人智を超えた絶対的存在はあるかもしれないが、人間が語るそれは人工物でしかない。

世界が今このようにしてある原因を説明出来ていない我々が神仏を知っているのは妙である。我々が神仏を信じるのは他者からの影響による。赤ん坊にとっては自らの存在こそ唯一絶対であり他に神はない。家族は自分を護ってくれる存在に過ぎず、彼らの為に自分がいると考えているわけではない。ならば無神論とは産まれたままの人間に備わった無垢の魂の原型である。

そしてその大人から見れば異能ともとれるイノセンス=異能センスは、社会に自己を埋没させる宗教や教育や法律や慣習に身も心も委ねてしまう南無センスに対峙する。それは自己を中心とするか他者を中心とするかの差異でもある。異能センスの持ち主にとって世界は自分のものであり、南無センスの持ち主にとっての世界は他者=神や公共のもの。どちらが間違っているわけでもないが、前者は後者に抑圧される。けれど前者から自己中心的なまま世界の側を変えてしまえる者が現れることもあり、彼らは異能者と呼ばれ逆に南無者の信仰の対象となったりもする。

  【4】トップページしかないのに1億ページビュー

算出方法は不明だが「トップページしかないのに世界中からアクセスがあり1億ページビューを超えた。この経験を元にネットの無意味さを暴き、かつそれを利用してビジネスチャンスを掴みたい」とする謎の人物がいたのだけれど肝心のサイト名が思い出せない。そのまま紹介しても意味はなさそうだが無意味をテーマにした文中にそういうものがあるのも一興と入れることにした。

いかに無意味な内容であろうとも情報は伝達される。そこから有意義な無意味への道が開けるかもしれない。僕らは意味があるから生きて意味がないから死ぬわけではない。公共事業と称してどうでもいいような調査に莫大な予算が投入されることを嘆かわしく感じられるのも確かではあるが、それを「無意味に価値を見出す」フィルタを通すと肯定せざるを得なくなってしまう。

人生は無意味であり人間は無意味かもしれない。だが我々は意味の奴隷ではない。意味とは言葉とそれに伴うイメージのことであり、言葉は人間の道具に過ぎない。我々は言葉の奴隷ではない。イメージの奴隷ではない。無意識発見の萌芽は紀元前の宗教や哲学にも見てとれるが、学問として整理されたのは近代だった。人間が産み出すものには必ず意味があり当人が気付かなくても無意識で望んでいたのだとフロイトが解釈したのに対し、ユングは個人ではなく人類全体の意思を説いたりした。

それはオカルトめいたものと思われていたりもするが問題は人類が生きられる稀有な地球環境は偶然の産物でしかないのかという点。そこには宇宙あるいは地球の無意識があるのではないか。そう考えてみると自然物さえ意味がある。無意味から意味をとりだす超現実や上書きの意味を説く脱構築。その運動それ自体が生きることであり、存在それ自体が価値を担保している。

  【5】Twitter自動投稿アプリ「なるほど四時じゃねーの

午前4時に「なるほど四時じゃねーの」と自動的に投稿できるツール。「何となく時間を浪費しているうちに深夜になってしまったことよ」という詠嘆に近い日本的な侘び寂びの境地だろうか。無意味を意味化する粋な洒落心を純粋な感性と捉えた場合に、小説家・高原英理『無垢の力』における「純粋とは無垢の堕落した姿である」との警鐘が気になってくる。

「なる四時」管理者はユーザの代理操作を悪用し、勝手に「お気に入り」ボタンを押す暴挙に出た。事前告知と操作の取り消しも行われたが完全には周知されず操作結果の一部は残ってしまった。無意味な遊びが一瞬にして悪意に堕落してしまったのである。

この流れは911テロに際し動物行動学者ドーキンスが感じた「宗教は無害なナンセンスではなく有害なナンセンスだった」との認識にも共通する。彼は宗教などウィルスのように伝播する情報を「ミーム」と呼んだが、教育や法律もまた人間の幻想に基づくものであるからにはミームかつ宗教である。

ミームに漢字を宛てて「味意無」とすると逆は「無意味」=ナンセンスである。無意味なものを意味づけするのが南無で、意味を無意味化するのが異能とも考えられる。イワシの頭も信心からというが、既存の価値体系に南無することによって心の安定は保たれるかわりに本来の自分は隠蔽される。それは体制側からみて価値があるとされるものだけに意味があって、価値がないとされるものは無意味とする構造である。

多くの者が社会に組み込まれるために捨てざるを得なかった異能センスを持ち続けられる異能者は意味の無意味性を暴く可能性を秘めているがその反面、無垢ゆえに遺伝子の利己性に逆らえない動物である。この南無センスと異能センスが相互に補完しあうことによって世界の均衡は保たれてきたのであり、今後もその仕組みは変わらないであろう。(了)