デスハック・ソリューション〜死と戯れ生を遣り過ごすグロテクスな方便(2/2)

・文芸空間社メルマガ『新大学02』収録(約41,000字)文芸空間社購買部

   【目次】

  061「グルメ/想像力/情報格差
  072「ファスト風土/衛生/添加物」
  083「捕鯨/家畜/ペット」
  094「生殖と捕食のデスハック」

      ※

  061「グルメ/想像力/情報格差

食欲には性欲と破壊欲双方に通じるところがある。ゴルゴンゾーラチーズは好きだが、酒盗は口に合わなかった。珍味と言っても色々あるものだ。東浩紀は『朝まで生テレビ』出演時の発言において「ネットによる直接民主制を導入した民主主義2.0構想を理解できないのは想像力の欠如である」と語った。この「想像力の欠如」という言葉はグルメに一家言あった文豪の名言でもある。

東浩紀がむしろアンチグルメなファスト風土肯定派であることを考えると非常に面白い対比である。草食系男子とファスト風土の関連。女性は生理があるため肉食のままいられたのではないか。必ずしもそうとは言い切れないが、男性らしさと女性らしさを拒絶した世代の余波だろう。

哲学者・清水真木の『これが「教養」だ』によれば「教養とは200年ほど前にフランスで生まれた」そうである。なくても死なないけれどあるにこしたことはないもの。だが本当になくても死なないかというと、場合によっては死ぬこともあることに気付く。危険な場所や危機への対処法を知らなければ死ぬ。それらは教養ではないと思われるかもしれないが、大学教育における「教養課程」は学士として必要な基礎知識を身につけるためのものである。

高等教育であるから義務教育ほどに基礎的なものではないけれども、ある程度以上の知的レベルを問われる場においては知らないと危険なことだってありうるのだ。いわばそこは知の戦場なのであり、教養なきものが生き抜く事は難しい。テーブルマナーをも含むグルメというものも教養の一環であるが、それも生命維持に欠かせない側面がある。

味覚障害は味蕾や神経の損傷もしくは心因性など様々な理由で起こるが、腐ったものや毒性に気付かない点で危険であるとされる。毒を薬にできるのは鍛えられた人間だけである。アスリートは暴飲暴食喫煙のダメージを軽減しつつストレスを解消できるが、デスクワーカーにはその体力がない。それでも体の害になるものを求めてしまう心理は自殺衝動に通じる。

そしてそれはだからこそやめられないのだ。すなわち死に近づくことと死を遠ざけることの両軸が人を成長させる。体と心のどちらを優先するか。皮肉にも健康増進の為のスポーツが仇なす場合もある。見えざる不確かな運命に身をゆだねる力を得るため人はグロテクスの世界へ誘われるのではないか。

『三島 vs 東大全共闘』なる動画で、三島由紀夫が喫煙者だったことを初めて知った。自決する1年半ほど前の映像。実は煙草と自殺願望の関連性について考えてて偶然に見つけたのである。三島は「芥川の自殺は器械運動をすれば大丈夫」だったという。けれど三島が自刃したのは「スポーツ的な自殺」ではないか。

確かに格闘技など一部のスポーツには自殺といってもいい位に無茶をする者がいる。それは自らのタフさに挑戦する行為である。F1選手の事故死の瞬間ばかりを集めた『グッバイヒーロー』なる映画を観た事があるが、モータースポーツも限界との挑戦である。スタントマンに至ってはその極致である。ある有名スタントマンはカメラの前で首がとれて死んだ。

「萌えロティック・性くノフィリア」でもとりあげたがジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』によれば、フランス語でオルガスムを意味する言葉には”小さな死”の意味もであり、それは全体性に連なりたい欲望の意味が込められているとか。僕は煙草にも同様のものを感じる。フロイト的にそれは男根の代替でもあり、男根は射精によって次世代に遺伝子を届けようとするから、これも「小さな死」といえるかもしれない。

「悪」の字を分解すると「亜」と「心」になるが「亜」の語源は「古代の墓の部屋を上から見た形。先祖の霊を祭る次世代から"つぎ"の意味」とか。「次」は、鳥の羽根を意味するニスイに、欠ける。羽根を失った堕天使としての悪魔ということか? 「好悪と善悪」は読み方こそ違うものの、字面の上ではどっちも「悪」で、グロテスクなもの=悪と考えた時に、それぞれ「善さ」と「好ましさ」に対するものがある。

「善さ」と「好ましさ」は果たして同じだろうか。先ほど「堕天使」という言葉を使ったが、それは神と悪魔の真ん中に位置する。人間はそういうものだという気もする。生と死の中間。寺山修司の晩年の詩『懐かしのわが家』の冒頭では「僕は不完全な死体として生まれ/何十年かかって/完全な死体となるのである」と語られる。最初からゾンビということ。

ゴーギャンの絵画『我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこへ行くのか』には右端に赤子、左端に老人がいて「赤子に忍び寄る死」というコンセプトがあると言われている。同様のモティーフは他にも散見され、この状況をドキュメント写真として撮影したピューリツァー賞受賞の『ハゲタカと少女』はさんざんに叩かれて、写真家は自殺した。けれども写真家の仕事は写真を撮ることであり、自分が殺されても仲間に助けを請うことすらしないという話もある。仲間さえ見捨てる覚悟の人間に少女だから助けろというのは理解できない所がある。その批判それ自体がグロテスクである。

ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』によれば「精子卵子が結合して受精卵になるのは、精子卵子というそれぞれの個体が死に、新たな受精卵として生まれ変わっているのであって、つまり受精卵は最初から精子卵子の死から出発している」と言っている。

それもその通りであるし、受精に至らなかった卵子精子の死があってこそ、選ばれた存在として産まれてくるのだから、やはり命は死によって齎されていると言えよう。そしてまた産まれ落ちて後も他の動植物を捕食しなければ生きていけない。すなわち死は生の原動力なのである。

ブリア・サヴァランは十八世紀と十九世紀の間を生きたフランスの食通として知られている人物だが、その彼が遺した著書『美味礼讃』に「美味とは養いになるもの全て」だと書かれている。サヴァランは食以外のあらゆることに貪欲であった。貪欲といえば「グルメじゃない人間は想像力が足りない」とした日本の作家もいた。彼は戦場で食べたいものを列挙し続け、敗戦後にたらふく食べた。その飢餓感が彼を生き残らせたとも考えられる。

ここにも第一章に似た生命の神秘を感じる。また嵐山光三郎文人悪食』から察するに人間性と食文化には通じる所があるのかもしれない。人間は命を戴いてしか生きられない。仮にそれが野菜や微生物であろうとも生命であることに変わりはない。我々の幸福や何気ない日常の全ては多くの犠牲に支えられている。それは捕食される動植物のみならず、途上国で強制労働させられている人々や、時間を遡れば戦地で血を流した先祖も含まれる。

僕は知識としてそれらのことを知っているが、現実感を伴う確かな経験として知っているわけではない。あくまで空想として想像することはできても、それはたとえば今まさに世界のどこかで起きている悲惨な出来事を信じられないのと同じく、痛みの付随しない単なる空想でしかない。夢想するだけの想像力に何が出来るというのか?

ファストフードが生きていた頃の姿からは程遠く原形をとどめていないのは、物理的に簡単に食べられるだけでなく心理的にも抵抗感がなくなるという2つの意味で「食べ易い」からである。特にグロテスクが忌避されやすい潔癖な環境ではそれが求められる。それと同時に新鮮であることが要求される生モノは高級品となり、グルメな人はそれを好む。新鮮なものを食べてこなかった国の人ほどそれを嫌う。西洋人の中には生肉は野蛮という者もいるが、ハンバーガーのレタスやサラダも生である。

いかに植物であろうとも生き物には変わらない。新鮮かつ丁寧に調理されていれば、それは全く野蛮ではない。けれども安全に生肉を食べられることを信じられないから拒否反応を示すのだろう。すなわち彼らにとって生肉を食べる日本人はグロテスクに見える。けれどむしろ最近の日本の食中毒のニュースで多いのは、刺身より生焼けの肉であったりする。それは手練の職人が調理していないからだ。

ファストフードはバイトが調理している事が多い。その分、管理が行き届いていればいいがそうではない場合もある。カキやフグは当たり易いが目利きの職人が調理することで危険ではなくなり、そしてそれゆえに高級品なのである。ファストフードとグルメのスリップストリームが望ましい。ファミレスにはそれがあるといえばある。

ある小学校で行われた食用豚Pちゃんを育てる「命の教育」において、子供達が泣くのに耐えきれず先生はPちゃんを自分たちで食べるのは諦め、出荷されるところまでとなったようである。とはいえその学校の給食にも、おそらくポークは出ていたはずだ。けれども子供達はそれを食べないわけではない。動物と食事の関係が理解できていないせいだ。

作者と作品の関係を無視する若者がいるのは同じことのようにも思える。そこを隠蔽することによって扱いやすくなる面もあるからかもしれない。宗教的な食への禁忌もある。食べていいもの悪いものというのは文化の優劣で一方を縛る為のものともいえる。捕鯨もそうであろう。

資源は生物だけではなく運がいいだけで得られるという意味では漁獲も化石資源も同じだ。その化石だって元は生物だった。生物がエネルギー源になっているのも不思議な因縁である。有機物が無機物を動かしているのがテクノロジーの正体であり、それは相反するものではない。

  072「ファスト風土/衛生/添加物」

中野ブロードウェイビルに展示されていた中野区の保育園児達による絵画には、何を描いたか通行人に伝わりやすいようにと、それぞれのモチーフに細かく名前が書かれている。たとえば「真ん中にいるのが子供自身で、左右にいるのが両親」というように。ところが子供達にとって正体不明な、おそらく景色や知らない人たちを描いたと思しき箇所は全てひとくくりに「おばけ」と説明されていた。かなり多くの子供が「おばけ」を描いている。

これは判らない物事を陰謀論で片付ける事にも似ているように感じたが、そもそも妖怪変化の類は不明な事象を説明するために産まれた経緯がある。けれどそれは果たして悪い事であろうか? 情報弱者とか情弱ってのは自分の持ってる情報の付加価値を高めるための前口上に思えてならない時がある。有益な情報は人それぞれ違うし真実の解釈だって様々なわけで、情弱かどうかなんて簡単に区別できるようなものではないと思う。

たとえば流行に載せられて売れてるものに手を出すのは情弱だなんて言い方をする人もいるけど、高品質だが高価すぎるものの存在は知りつつ安かったり入手しやすいという理由で買う事もある。成分や使い勝手が変わらなければ安い方を買うけれど、売れてるものが使いやすかったりする事も多い。

情報弱者という言葉が好きになれないのは、情報量さえあればいいというような発想が甘すぎると思うせいだろう。どんなにデータを揃えたところで考える力がなければ、それは単なる知識のコレクションに過ぎず、蒐集物を愛でることしかできないなら弱者である事に変わりはない。

情報強者と言ってもそれは「たくさん情報を持っている」というより「強者しか知り得ない情報を知ることが出来ている」ということであり、情報強者ゆえに強者ではなく強者ゆえに情報強者という事だろう。方便としての嘘に救われる人もいるわけで、それは別に虚構であることが明らかな創作物だけに限らず、まことしやかに巷間を漂う噂程度のものであっても同様であって、そういう意味では事実かどうかなんて事ばかり言っていては解決できない問題も多い。要は偽薬=プラシーボ効果である。

考える力とは自分だけに都合のいい方向に持っていける力の事である。説得力を持たせるために情報の質量による理論武装が有効である事を否定するつもりはないが、それが真実かどうかなんてことに意味はなくて、有益だと思い込ませられれば十分なわけで。

プラグマティズム実用主義道具主義、実際主義)ということかもしれない。有益でさえあれば似非科学やオカルトの価値をも受容するものだと認識している。これはエゴイズムというわけではない。たとえばエコロジーが利己的な理由によるものだとしても結果的に有益だと信じているならそれは利己的な利他でありエゴイズムではない。「詭弁で何が悪い」という事でもない。相手に詭弁だとか利己的だとか思われてしまっている時点で強者とは言えないわけで、誰にも悟られずに利己的な方向に持っていけるようでなくてはならない。

これがグルメとも関わってくる。一流の料理人は冷蔵庫にある残り物を使うだけで旨いものを作れるものだし、下手な人が作れば高級食材が台無しになることもある。同様に旬の素材こそが最も旨いと考えたたら、好きな食べ物や得意料理というのも季節によって変わるわけで、状況に応じた判断ができるかどうかが重要なのである。

これはファスト風土においても変わらない。ファミレスにしろハンバーガーショップにしろ、季節感を考慮したメニューを用意する位の良識はわきまえている。いつでも同じものを食べなさいと言っているわけではないのだ。グルメに興味がない草食系男子にもグロテスクな内面は存在する。むしろ対外的に昇華できない分、闇が深い場合だってある。藤子不二雄Aは肉も魚も食べられないが、作風はグロテクスである。

思想的なベジタリアンは別としてハンバーグなどごく限られた加工法でしか肉を食べられない偏食家は草食系に近いと思う。実際にそう呼ばれる若者は肉を食べないわけではなく、グルメ志向を持たない。そういう意味ではたとえばチーズバーガーしか食べないビル・ゲイツや、ピザしか食べない庵野秀明ハンバーガーやピザが多いとされる小室哲哉も同様である。彼らは果たして悟り系かというとそんなことはない。むしろ誰よりも社会承認欲求が強い男性的な面を持っている。つまり食事の好みとライフスタイルは必ずしも一致しないのである。

ハイチ地震ではスーパーからの強奪が相次いだが、さながらゾンビ映画のような話である。そもそも添加物で鮮度を保たれた食品それ自体がゾンビ的なものである。ゾンビが人を喰うのも象徴的である。ハイチはヴードゥー教の司祭が建国に関与した世界初の黒人国家であるとともにゾンビ伝説の発祥地とも言われている。ヴードゥーが労働者を働かせる手法であったともされるが、それは災害への弱さとの関連や黒人が奴隷として正にゾンビのように扱われてきた事にも由来すると思われる。

「ゾンビ化」という用例が既にあるかググってみたら、社会学者・鈴木謙介氏の「ゾンビ化した高度成長モデルを乗り越えろ」という言説が見つかった。そこではネガティブな印象が付加されているわけであるが、僕の思うゾンビ化はポジティブな概念なので相反する定義なのかもしれない。鈴木氏は社会現象をゾンビと呼んでいるが、僕の場合は自我を持った消費者の総体こそゾンビの正体だと感じている。

映画に登場するゾンビはヴードゥー教の秘儀により奴隷化目的で洗脳されるゾンビではなく、誰の言う事も聞かない手のつけられない厄介者である。だがそれは従来の人間側からの観方に過ぎず、ゾンビの内面はどうなっているのか。死者であるから人間性は失われているとも考えられるが、従来の人間の意識とは別の魂が入っているとも推測できる。

それはカレル・チャペックの小説『R.U.R.』やアイザック・アシモフの『われはロボット』などの作中で自我を芽生えさせ人間に歯向かうロボットに近い構造ともいえよう。しかしゾンビ化した消費者は労働者たる人間でもあるため単純に敵対できるわけではない。民主主義国家における主体は国民であり、それは人間かつゾンビをも含む消費者共同体なのである。

  083「捕鯨/家畜/ペット」

捕鯨に関してエコロジーの哲学的見解が必要になってくる。シーシェパードは何のために鯨を守るのか? それは戦争である。東浩紀は戦争の欲望を人間的欲望と呼んでいる。承認欲求とは「自分の存在を確認する欲望」に他ならない。そのために他者を必要とするのであって、自己なき所に他者はない。

彼らは鯨と同等の世界観を持つセカイ系的な動物なのだ。さて鯨なき世界で彼らはどうなるであろうか? おそらく何も変わりはしない。そもそも鯨と何の縁もないのだから。けれど鯨を奪われた日本の捕鯨関係者や鯨を祀る祭事は変化するだろう。戦争によって宗教が変化するのは歴史の常である。宗教とグルメは繋がっている。

肉体の感覚。命を戴いて生きる事の皮肉。そこに宿るグロテクスな詩情。リアルを斜めから見るとグロテスク。どっちが本当のリアルか。味覚障害者にとっては理解不能。けれどそれは人間の文化を損なうものでもある。野草や生肉しか食べない動物の味覚は発達していない。「食育」の観点からしてもグルメは人間にとって重要である。

僕自身も1週間ほど味覚障害に悩まされたが、そこから得たものはあった。感覚は全て危機を察知するためにある。だからそれが満足に機能していないと不安になる。感覚が快楽にも通じるのは、快楽が危険と隣合わせだからである。美味しいもの食べる、何かを手に入れる、勝負事に勝つといった快感を齎すものは、肉体的あるいは精神的な飢餓や敗北といった危険を回避できた喜びでもある。

この現象は「わからないことをわかろうとする時に脳を活性化させる」という茂木健一郎の「アハ効果」にも似ている。それもまた敵とも味方とも判らない不気味な謎に対して危機感を脱しようと考えを巡らせるという意味では、やはり危機回避に違いない。

なお茂木氏は創価学会名誉会長・池田大作氏との対談を予定しているそうである。両者の接触は不可解にも思えるが、現生利益を売りにする宗教団体と脳を鍛えることで現実を豊かにしようとする発想は根本的に同じといえなくもない。実際にどのような対談になるかは今のところ不明だが、互いに何らかの危機を乗り越えるべくセッティングされた場であると考えたなら、おそらく二人とも快感を得ることだろう。そしてそれは宗教的体験というよりもっと医学的な現象である。

最近話題の口蹄疫について「殺処分にしろ食用にしろ、どうせ殺すんだ」という意見があるけれど、それはまるで「口に入れば同じ事」といって料理の食材を口の中で混ぜるようなものではないか。畜産従事者は家畜に対してもペットさながらの愛情を持って接するそうである。ストレスを感じさせてしまうと美味しく育たないから。

いつかは食料として出荷されてしまうにしても、せめて一緒にいる間は大切な家族と考えるわけで。これは重要なヒントになる。人間も宇宙の一部に過ぎないことを考えれば運命に抗うことそれ自体が運命。また絶対的な運命が無慈悲であるかどうかは考え方次第で相対的に変化する。

海外のネット通販で「ユニコーンの肉の缶詰」が実際に売られてるのを知り、日本にも「肉は肉だよ!」と言って「謎の肉」を売る店の話を思い出した。「本当は何の肉か判らないが旨い」というサイトの宣伝文を読んでみたら「客を殺してミートパイにして売る」という民話を元にした映画『スウィーニー・トッド』を思い出し、気持ちが悪くなった。僕は珍味好きなのにユニコーンを食わず嫌いしていてどうすると思い、せっかくだから買ってみたいが送料が判らないので買わなかった。

珍味好きといってもゲテモノ喰いというわけではなく「ありふれた珍味」しか基本的には食べない。食事と思想の傾向には相関関係があるように思われるが因果関係があるとは限らない。癖の強い食べ物が好きなのとゲテモノ好きは大きな違いがある。ゲテモノ好きは変なものを食べたいというだけで味は二の次であろう。ゲテモノといえば、肛門から臓物を啜るキビヤックや、人糞酒・トンスルを食すのは勇気がいる。とはいえキビヤックは伝統のある民族食なので、いちおう珍味の部類であろう。トンスルは昔の民間療法と言われていて、今はもう誰も飲まないとされている。

多様な死のあり方を手掛かりに生の複雑さを知る。渡辺浩弐の『iKILL』という小説のタイトルは端的にそれを表しているが、この作品もまた様々な方法でじわじわと人を殺していく物語である。それは殺人を賛美しているわけではなく、むしろ命の重さを感じ取る為の逆説的な偽薬=プラシーボなのだ。グロテスクな現実とグロテスクな虚構の狭間で引き裂かれる魂。気に入らない人間に頭を下げて良い暮らしの出来る現実と、気に入らない奴をメッタ刺しにして死刑になる虚構。いずれもグロテスクだがベクトルが違う。

ありえなかった過去の分岐点やこれから先の未来に待ち構えている可能世界というのも虚構であり、そして死もまた。有限の時間を生きている限り、生きる事は死に近づくことである。つまり現実は虚構へ向かう。実は今回、何か引用できないかと思ってドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』を手にとってみたが、冒頭の「太陽肛門」でいきなり躓いた。

どういう意味なのかググってみたけど「太陽肛門スパパーン」の情報だらけである。思えば精神分析学を構築したフロイトからして下ネタ大好き人間だったのである。岸田秀に至ってはセクハラ教授だったのみならず著作にて自らそれを暴露している。「芸術と猥褻」論争が勃発しやすい文学やアート界隈のみならず思想哲学においてもグロテクス表現は少なくない。それを称して「ポストモダン哲学とは、やけっぱち哲学のことだ」との言葉もある。

「やけっぱち」といえば手塚治虫性教育漫画『やけっぱちのマリア』も悪書追放運動のターゲットになったことが想起される。ちなみに先頃、手塚らの少年漫画路線とは反目していたと言われる劇画勢力の担い手だった漫画雑誌『ガロ』は休刊し、元編集者らの手によって発刊された『アックス』は後続として今も続いている。

四月一〇日に高円寺・西部古書会館で行われたトークイベント「昭和のカルチャー、漫画、そしてガロ」において、その『アックス』編集長・手塚能理子と対談した特殊漫画家・根本隆は次のように語った。「長井さんが新人漫画家を採用する時の基準って漫画自体の良し悪しとかじゃなく『とりあえずウチで何かやらせておかないと事件を起こしかねない』っていうことだったんじゃないかと思うんですよ」(日刊サイゾーのレポートより引用)「長井さん」とは漫画雑誌『ガロ』の創始者長井勝一氏のことである。

なお『アックス』編集長は手塚治虫と同姓だが、同誌に連載された花輪和一の漫画『刑務所の中』が朝日新聞社主催の「手塚治虫文化賞」を受賞する運びになった際「手塚漫画の影響を受けた覚えがないから結構です」と断ったエピソードが同イベントで紹介されていたくらいであるから、おそらく関係はないと思われる。そもそも花輪は決して知名度の低い作家ではないが、自らを「マイナー漫画家」を位置付け賞の類を拒否してきたという話もある。

これらオルタナティブシュルレアリスムビートニクポストモダンといった猥雑なパワーの凝縮された特殊性こそが、凝り固まった既存の価値観に風穴を開ける。商業的にはメジャーなマイナーとマイナーなメジャーの交差する地点の、磁場が羅針盤を狂わせる表現の青木が原樹海ともいうべきおぞましさ。だがそこには近寄りがたさゆえに護られてきた原始生物の存在がある。

それは有意義なことである。常識に抵抗するグロテスクと幼稚さから生まれる突破口。ジャンプやサンデーのオタク層と、マガジンやチャンピオンのヤンキー層と、ガロのサブカル層。ゴスロリ少女とも繋がるのは、やはり文学やアートとの関連だろうか。全てファッション性とも関連している。だがしかしそれらの嗜好はリスカメンヘルも繋がってしまう。朝青龍解離性障害や格闘家に自殺者が多いことからも判るように、強靭な肉体と強靭な精神は必ずしも一致しない。

僕はデスハックによって精神的危機に耐えうる強靭な精神を養えるのではないかと期待している。イジメがなくなるにこしたことはないが、子供達の生活を完璧に監視するのは困難であるし、それが出来たとして常に監視されているのは子供の側からしても辛い部分があるだろう。

「嫌われ者、世に憚る」と昔から言われるように、苛めっ子より虐められっ子の方が強く育つ世の中であってほしい。肉や魚を捌いたり、虫を潰して遊んだりするグロテスクな体験が、サバイバル精神をより強固なものにする。とはいえ実際に体験することにはリスクもあるので、ゲームなどで疑似体験するわけである。いざという時に役立つという意味では、アダルトビデオにしても同じだ。

ただしそれは笠井潔率いる限界小説研究会の評論集『社会は存在しない』に渡邉大輔が寄せた「セカイへの信頼を取り戻すこと――ゼロ年代映画史史論」において指摘した「疑似ドキュメンタリー」の側面もあり、ドラマ部分のみならずセックスの場面においても監督の演出や男優女優の演技も含まれているので、全てがお手本になると信じてしまってはいけない部分はあるが、それは通常のニュースなどにも何らかの理由があって作為が施されていると疑うべきであるとするメディア・リテラシーとも共通するものである。

  094「生殖と捕食のデスハック」

世界は表裏一対の二重螺旋構造の生命システムで出来ている。0と1のスウィッチング、拍子と裏拍のスウィング、オンラインとオフライン、意識と無意識、皮膚と内臓。両者が相互にフィードバックし合いながら、そのせめぎ合いの中で共に進化していく。これが生の推進力を形成している。

「生殖と捕食」をグロテスクな諧謔を込めて言い直すと、それは「上の口と下の口」の関係になるだろうか。これは単なる冗句に思われるかもしれないが、駄洒落的なタイトルの思想本も案外多いものである。『思想の歯槽』とか『思想膿漏に注意』といった具合に。それは単なる言葉遊びではなく同音異義語を手掛かりにして異なる事象を組み合わせる類のライフハックであり、遊び心から面白いものが産まれるのは良くあることだ。

斯様な言い草がグロテスクに視えるか否かは、観測者と対象との距離には関係がない。思い入れの強さが祟って当事者の態度がグロに思える場合もあれば、興味本位の好奇に満ちた野次馬による高みの見物がグロに感じられるケースもあり。外部と内部それぞれにグロがある限り、グロを客観視するためには両方の立場を参照しなければならない。

今回のテーマでいえば欲情する側とされる側、喰う側と喰われる側である。東浩紀『批評の精神分析』によれば労働と消費はイコールである。生殖と捕食はそれぞれ労働と消費の双方に跨る側面を持っている。いずれも体液の分泌および体組織の摩擦や五感の刺激によって快楽を得るものである。

高齢化する現代において医師不足が深刻な問題となっているが、特に外科医は世間からはグロテクスなものとされる剥き出しの人体と格闘するが故に崇高かつ珍重される職業である。本来であればそこに耐性を持つ青少年には外科医の素質があるとしてスカウトされるべきなのではないかとさえ思う。ただそれ以前に教育機関の受け入れ体制や金銭的援助など整備されるべき事項が多数あるので簡単にはいかないかもしれない。けれども少しでも早く状況を改善するために、梃入れされるべき急務の課題であるだろう。

布施英利の『図説・死体論』では検死や研究のため解剖される遺体の写真が多数紹介されている。それらはまるで生きているような状態であったり、あるいはパーツごとに腑分けされているもの、完全に細切れでヒトの体を為していないものまで、実に様々な状態である。

アンディ・ウォーホルポップアート作品の題材に使用した実際の事故現場の死体写真なんてものまで含まれている。これはまさにグロテスクの極みであるが、しかしそれらは決して諧謔の対象ではなく、学術もしくは芸術といった崇高な目的の為に晒されてきたのである。魂が抜けて血の通わなくなった人間の遺体は、既にヒトと呼ばれるものではなく、いわばヒトの抜け殻に過ぎない。けれどもそこにヒトの面影がある限り、我々はそれをヒトとして認識する。

ここにもロラン・バルトが指摘した形骸化した表徴が発する無意味の有意性が前景化されている。ヒトでありヒトではないもの。それは人形もしくはヒトの形を借りた鬼や神仏の類も含まれる。それらは人智を超えた存在感を保つが故に畏怖の感情を想起させる。

即ちヒトは死ぬ事によって人智を超えた鬼神の類に連なる事が出来るのである。とはいえ形而上の存在としての魂それ自体と、魂が抜け落ちた脱け殻は、もはや別種のものである。京極夏彦が説明する妖怪研究においても、魂が表徴化する幽霊と死体に別の魂が宿る現象は別の妖怪として区別されている。

人をモノとして見るという事。トレーダーや経営者が人材をモノ扱いする事もあれば、男が性の道具として女を見たり、逆に女が男を財布にしか思ってないなんて事もあるが、もっと根源的に人間は他者を物質としてしか感じていない所がある。たとえばそれは芸能人を架空のキャラクターみたいに思っていたり「人ゴミ」なんて言葉が示している通り関係のない通行人をゴミのようにしか感じていないという具合である。

これは別に都会人だから冷たいというような事ではなく、他者の存在を理解できていない子供にとって見知らぬ人は人間ではなかったりする。中野ブロードウェイビルに展示されていた子供達の絵には「おばけ」と名付けられた輪郭のぼやけたモノが無数に描かれていた。それは他者をも含む理解できないモノ全てをいっしょくたにして恐怖の対象「おばけ」になぞらえているわけである。

東村アキコの育児コミック『ママはテンパリスト』では「鬼」を利用することで上手く子供を躾けている。僕は子供を持っていないので判らない部分もあるが、喘息治療のため毎月通院している病院ではアレルギー科が小児科も兼ねているため、待ち時間に親子の会話を何度も聞いている。

子供が言う事を聞かない場合に優しく宥められる親と、酷く怒鳴りつける親がいる。それぞれのやり方があるのだろうとは思うが、他の親が口を出す事はない。怒鳴られてばかりいる子供は可哀想に思えてならないが、それが子供のせいなのか親のせいなのか簡単に判る事ではないし、特にどうするわけでもなく観ているしかない。まるでテレビでも観ているような感覚である。

余りにも激しく折檻しているように見える時もあって虐待ではないかと感じることさえあるが、やはりそこは単なる傍観者である僕がどうこうすることはできない。他の親もそうなのだろう。いわば他人の子はモノでしかない。だから連れ子を虐待するなんて事件も起こる。

「子供はペットじゃない」と言う人もいるが僕にとってはむしろ「ペットは子供みたいな存在」なので、そういう言い方には反発したくなる。けれど彼らにとって他人のペットはモノのように見えているのだろう。結局は関心のない他者はモノなのである。

さてこれがアイドルとなるとどうか。芸能人であっても興味がなければそれは漫画やゲームのキャラと変わらない。有名人の訃報を受けてもゲームのキャラが死んだ位にしか思わない。小学生男子が「ときメモの詩織ついに倒したぜ!」なんて言っていた事がある。恋愛の意味もゲームキャラに感情移入する術も判らない少年にとって萌えキャラはモンスター同様なのである。

しかしそれが思い入れのある対象であってもやはりモノ扱いするケースがある。すなわち崇拝するがゆえに距離を置く。論語に「鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし」という一節がある。鬼も神も同様に遠ざけてしまうのはアイドルを遠い存在として崇めることにも似ている。「モノ扱い」=「大事にしない」というわけではない。大切なコレクションというものもある。

ペットではなく家畜であれば判らなくもない。ペットが家族だとしても家畜ではない。家畜を英語で「ドメスティック・アニマル」と言うが、家族は「ドメスティック・ヒューマン」ではなく「ファミリー」である。「ドメスティック・バイオレンス」略してDVという用法はあるが、封建社会後に産まれた比較的新しい用語だ。ここで何故「ファミリー・バイオレンス」ではなく「ドメスティク」を使うのか考えてみると、あまり好ましいイメージではないせいだろう。

ある日の僕のツイートである。「日本国憲法はハーバード.G.ウェルズのユートピア論が元になってるらしいが、それが誰にとってのユートピアか考えたなら日本人にとってはディストピアかもしれない。けれど悠久の歴史を紐解けば一庶民の自分にとってこんな良い時代はなかったようにも個人的には思える」それに対し罧原堤という人が答えた。「もしも未来の世界、千年後、5千年後、1万年後とかが楽園ネオだったら今は地獄と言えるとも。そんなさき知るよしもないから比較して苦しい思いにはかられないけど」

そこで僕はこう返した。「その発想だと逆も考えられますよね。苦しかっただろうとしか思えない時代の人が必ずしも自分達の時代を地獄と思っていたかどうか判らない部分もあって。ただ過去の事に関しては当時の記録があるので推論できる余地は少ないわけですが」その続きをここに書いてみたい。

個体としての人間ではなく人類の総体としての観点からすれば、人類は種の存続のために様々な工夫を凝らして危機を脱してきたタフな面を持っている。その工夫こそが今で言うところのライフハックでもある。しかし同時に人間同士の諍いは絶えた事がなく戦争の悲劇も繰り返されてきた。それがデスハックだったとも言える。

エロスとタナトスの原理からすれば強い個体を残す為に弱い子供を殺したという古代ローマのポリス・スパルタ式の環境管理は、ゆとり教育が施される今なお世界的には強く根付いている。その背景には屠殺に従事する機会を喪失した事によって、行き場をなくしたタナトスが暴発したと考える事もできるのではないか。

スポーツによって昇華されるのが望ましいが、それだって過酷な競争原理の一環に過ぎず、体力のないものが発散できないケースもある。ビジネスにおいても同様である。それ以外にも各種表現のフィールドにおいて勝負事はつきものである。テレビゲームだってそうだし恋愛やコレクションや文学、そして本稿の如き論考にも上下好悪の審判が下る。僕は本来なら争い事は避けたい所なのだけれど、何らかの思い入れが発生すると途端に好戦的に豹変してしまう。

特にそれは弱者と感じているが故の慢心から来ているのだろう。そして自分のような弱き立場の者が心の奥底に潜む獣を飼い慣らすためには、グロテクス表現の交換によるデスハックが有効と思われるのだ。代替手段を持ち得ぬからにはそこを奪われてしまっては術がないわけで、一見グロテクスに思われる文化の規制にはそのような立場を見据えた寛大な処置が肝要である。

生理的嫌悪感は何に起因するのか? 先天的な資質と宗教や文化など後天的要素が複雑に絡み合っているように思う。『カネと暴力の系譜学』や『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど』など暴力と向き合う著書を持つ哲学者・萱野稔人は『ダ・ヴィンチ』二○一○年六月号「奥浩哉『GANTS』特集」に寄せたコメントで「作中の意味と無意味の境界がなくなり、それによって善悪の区別もなくなる善悪の彼岸を垣間見た読者は、生と死/意味と無意味の境界線のある承認空間に戻りたいと願う。そこに希望を見出せるのは承認空間が生きるに値する証」というようなことを語っている。すなわちそのような極限状態を描くこの『GANTS』という漫画を読むことで、読者は自身の生の在り方に対する疑念を氷解させうるということだ。

かつてNHKのテレビ番組『真剣10代しゃべり場』の「何故人を殺してはいけないのか?」という疑問に多くの若者が共感したように、善悪の境界が希薄な環境である若者が増えている。神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗秋葉原通り魔事件の加藤智大。彼らに足りなかったものは何か?

彼らが悪事と知ってなお暴挙に出たことは判明しており、決してそれは善悪を分別する心がなかったからではない。悪事に手を染めることで失われる護るべきものがなかった。承認欲求を充足させてくれる関係性の剥離ということでもあるだろう。本来であればその対象は親兄弟もしくはペットをも含む家族や友人、恋人あるいは趣味の仲間など、とにかく自分を慕ってくれる他者の存在である。

愛されるから愛するのか、愛するから愛されるのか。岸田秀の唯幻論によれば人間の本能は壊れているから、本能的に愛する事も本能的に殺す事も出来ない。あくまで損壊しているに過ぎず本能の程度には個人差があるわけだが、それでは共同体の互助機能がうまく作用しないので、本能の代わりに編み出された倫理規範に基づく法律によって、自由度が制限される事となる。けれども問題なのはその境界線をどこに置くか。

さきほど挙げた『ダ・ヴィンチ』「GANTS特集」には『神話が考える』を上梓したばかりの批評家・福島亮太も寄稿しているが、そこで彼は「笑い」や「ずらし」などによって予定調和を狂わす「脱臼感」こそが逆に伝達効率を高めることが、ゼロ年代日本で鮮明になったとコメントしている。

この「脱臼」とはすなわちポストモダン哲学の「脱構築」と同じことに思える。東浩紀によれば「欧米ではポストモダンという言葉は時代遅れなので、使うとバカにされる」そうであるが、現実に先行して理論が構築されることもあり、今ようやく時代が追いついたとも考えられる。マーケティング学のキャズム理論でいうところの「キャズム(断絶)を超えた流行」とされる判定基準は、一部の探究者やマニアの内輪ノリから離れ、それこそ猫や杓子にさえ持て囃されるようになることなのである。

だからポストモダン理論の普及も言葉の意味どころかポストモダンのポの字も知らない層にまで浸透して初めて現実化したと考える事も出来る。そしてまたその頃には既に次世代の未だ普及していない理論が完成されているはずだ。それは流行語が話題になる頃には既に発信源では死語と看做されていたりするのと同様の流れである。

今回のテーマは「生殖と捕食」であったが、先ほど引用した「脱臼」どころか骨が飛び出す複雑骨折の様相を呈しテーマから外れている部分もある。脱臼は関節が外れることであり、厳密には骨折と区別される。身体能力に優れた者の中には自ら関節を外すことでダメージを減らし骨折を回避したり、あるいは手足のリーチを伸ばして攻撃範囲を広げる、もしくは逆にサイズを縮めて狭い隙間をすり抜けるといった妙技を使う者もいるらしい。

これは文章表現などにおいても言えることで、作品の伝達効率を高める目的意識を持って自在に脱臼できるのも、器用な表現能力を備えた者のみに可能なアクロバットのひとつであろう。けれどもそれが叶わぬ場合には指を咥えていればいいわけではない。脱臼が無理なら複雑骨折させてしまう手もある。そうすればグロテスクな内面が前景化され、無理やりにでも構造の力を発揮させることは不可能ではないはずだ。

ダ・ヴィンチ』を手に取ったのは何かの参考になればと思ってのことだったがどうにか繋がり得たのは、やはり「脱臼」の引力に促されての効果なのかもしれない。いや精確には繋がってなどいない。これは脱臼ではなく複雑骨折により飛び出した骨に、コンビニで仕入れた雑誌を人工的に接木した、グロテスクなキメラに過ぎない。グロテスクなまでに露呈された内面あってこそ伝わる更に奥底に潜むもの、あるいは一周して逆に見えてくる表象、それがこのような単なる脱線に見える迂回によって共有できるのではないかとの願望もある。

僕は信念というものが希薄なので、いま何故それをしているのか判らないことが多い。子供の頃から築き上げ備わっていた規範を捨て去った経緯からそうなったんだと思う。それは後付けの信念より心の奥底に抑圧されてきた無意識を開放させたい欲求に基づく。自分で自分を理解できていないから理由があって選択するのではなく、選択することによって自分を発見する。

心理テストや占い。経営者がマーケティングや占いに身を委ねるのも、信念の根拠のなさを知っているからであろう。何もかも自分ひとりで決めるのはいささか窮屈である。何より時代が変わればニーズを察知する嗅覚も鈍ってくるから、他者の意見を参照しない事には身動きが取れなくなる。

ネットにはエロ画像とグルメ画像が蔓延している。テレビや雑誌でも両者ともに鉄板ネタといっても過言ではない。スタイルを良く見せるファッションや制服やスーツに対する萌え、コケティッシュな下着、あるいは性的な魅力を感じさせる声や音楽、音楽と食事を同時に堪能するディナーショウ、お洒落して呑めや唄えやのどんちゃん騒ぎというように。

これらは全てセットになっているからこそ、所属するクラスタが異なればそれは奇異なるグロテスクな風習に視える。五感を刺激することが刹那的な快楽の全てであるならば、さらに別の知的な快楽もある。それは仏教でいうところの声聞(しょうもん)=教えることと縁覚(えんがく)=学ぶこと。

作者と読者は五感を離れた世界でグロテスクな夢を共有する。夢は記憶を整理する。味蕾損傷による味覚障害と回角損傷による夢障害。今回は端折ってしまったが、機会があれば「生殖/捕食」に続いて「作者/読者」「宗教/戦争」という組み立てで「個人VS個人/個人VS群衆/群衆VS群衆」というように、カメラを遠ざけていくようにして考察してみたい。それは対象との距離であって媒介されるカメラとの距離は変わらない。むしろカメラは近づいてきている。そしてそのカメラを動かしているのは、死神なのかもしれない。(了)