デスハック・ソリューション〜死と戯れ生を遣り過ごすグロテクスな方便(1/2)

・文芸空間社メルマガ『新大学02』収録(約41,000字)文芸空間社購買部

   【目次】

  010「ライフハック」から「デスハック」へ
  021「萌えロティック・性くノフィリア」補遺
  032「BL/TL/百合/JUNE/薔薇族/ゲイ」
  043「不倫/心中/セックス依存症
  054「フェチ/SM/児童ポルノ
  061「グルメ/想像力/情報格差
  072「ファスト風土/衛生/添加物」
  083「捕鯨/家畜/ペット」
  094「生殖と捕食のデスハック」

      ※

  010「ライフハック」から「デスハック」へ

「死」について考える事は裏返せば「生」について考える事でもある。媒体の種類を問わず日夜巷間を賑わす報道の類には、死亡事故や殺人事件あるいは有名人の訃報のいずれかが、常に言及されている。それらの中には大半の人々の日常とは乖離した数奇な事情を含むものも少なくないが「死」それ自体は決して遠い世界の稀有な現象ではない事は誰もが知っているはずだ。

僕は直に人を看取った記憶はないけれども、親類縁者や友人の訃報には何度か直面している。先日も母方の祖母を失ったばかりである。両親こそ健在ではあるものの、数年前には内縁の妻すなわち婚約者の父親、つまり僕にとっては義父になるはずだった方も他界している。志半ばで病に斃れた同級生や、自ら死を選んだ同朋もいた。

悲しい事にこういった事例は別に特殊なケースではなく、実にありふれた日常的な事件のひとつに過ぎない。「死人を出した事のない家はない」と仏典にもある。現実には新築物件なら死人は出ていないけれど、それでも入居者の家系で死者が一人もいないなんて事は絶対にない。けれど死を目前にした経験を伴わぬうちは遠く感ぜられるものでもあり、そしてまた遠くて近い距離間の不透明さは、生と死の両面に通じるもののように思える。

大切な人の死に接した事がなくとも、我々の肉体を構成する細胞は新陳代謝によって常に死んでは代替わりし続けているし、日々の食卓に並んでいるのは動植物の死骸なのである。あるいは活き造りなるものもあるが、すぐに咀嚼嚥下され天命を終えることとなる。それらはあらかじめ死んでいたり気付かぬまま死んでいたりするものであるがゆえに、普段から死という現象に晒されている事に無自覚であってもおかしくはない。けれども一方でその事実をことさらに警戒し忌避するがあまり、隠蔽してしまっていていいものだろうかという疑念も湧く。

僕は7歳と17歳の時に交通事故で死にかけたことがある。27歳の時には実家で飼われていた牡猫が轢死した。僕が故郷を離れているので「長男のようなつもりで飼っている」と親からは聞かされていて、身代りに召されてしまったようで申し訳なく感じたのを覚えている。実家にいた頃にも、やはり飼い猫2匹が轢死していて、第一発見者はともに僕だった。今も東京で猫2匹と暮らしているが、外は危ないので出さないようにしている。閉じ込めたままなのは可哀想だという意見もあるかもしれないが、外猫の糞尿被害も社会問題になっているから、最良の選択ともいえる。

2chの「動物嫌い板」に出入りするような人からは「そもそも猫を飼うな」と言われそうだが、血統書付きを買ってきたわけではなく、ブリーダーの元から脱走した血統書付き母猫と野良の父猫から産まれ貰い手もなく不憫な牡猫と、豪雨のなか親とはぐれ車道わきで震えていた雌猫の2匹と縁あって暮らしているので、これは自分で選択できるようなものではないと考えている。そのようなことも含めて僕は運命に従って生きているようなところがある。僕の考えではこの生き方こそ最も「人間的」なものである。責任より快楽を優先する動物は、簡単に弱い者を排除してしまう。弱者を守れる者だけが真の意味で人間だと思っている。

弱者か強者かに限らず人を痛めつける所業はグロテスクなものに思えるが、世の中にはグロテクスな感情に対する考え方の転換次第で解決され得る議論が散見されると僕は考えている。グロテスクと対峙する先行論は古今東西あらゆるものがあるけれど、それでもなおここに照準を合わせるのは、それらの知識は教養として知っているものの意識は共有されていないからこそ、それらを題材にした議論が成立すると思うからである。

そしてグロテクスを匂わせる事象の代表格は「死」を巡る言説だろう。グロテクスとは端的にいえば、秘すべきものとして隠蔽されてきたはずの臓物や汚物あるいは怨恨といった、ネガティブな側面が衆知に晒される状況のことである。ここでいうネガティブとは後ろ向きの感情という意味ではなく、プリント前の写真のネガフィルムのように、色補正等で繕われていない剥き出しの回路のことである。同様の理由からセクシャルな猥褻表現も含まれる。

これらのものが嫌われる理由としては、臓物や汚物が隠されずに存在する光景が怪我や汚染による命の危険を感じさせるため、そこは忌むべき場所として早々に立ち去る必要があると察知させる「危機管理能力」の作用であるとも考えられる。怨恨や猥褻感情が露呈されるような状況についても同様だろう。必ずしもそれらを開陳する者が自らに仇なすとは限らないが、それらネガティブな感情や表現の発露に対する自制が効かないからには、危険性はあると考えるのが自然である。それでもなお我々は様々な表現形式において恣意的に描かれたグロテクスな場面に遭遇することがかなりの頻度で発生する。そしてそこにはグロテクスの需要に対する供給の関係がある。

何故それを求めるか考えてみると、無菌室さながらに清潔な環境では失われがちな「危機察知能力」を高めるための「予防接種」の如きものなのではないかと思えてならない。現実あるいは空想における加害者/被害者と、明日を見通せない自分自身の置かれた環境は、皆等しく紙一重の存在である。病気も事故も殺人も、過去現在滞ることなく起こり続けてきた普遍的な出来事に過ぎない。それら凄惨な現実をして「明日は我が身」と思う為の処世術として我々が身に付けてきたグロテクスと対峙するソリューション=解決策なのである。仏教的な言い方をすれば方便に当たる。

論考を進める便宜上、その手法に名称を与えたいと考えた。技術力や発想力によって作業効率を脅威的に高められるエンジニアはハッカーと呼ばれる。一部の小説や映画等においてセキュリティのプロテクトを突破して悪事を働く者をそう呼ぶ傾向もあったが、それは本来の技術者と区別するためにクラッカーと呼ばれている。そしてその才覚を有意義に発揮するハッカー的技術を、メタルカラーの業務以外の日常生活においても応用する「ライフハック」なる言葉が、昨今話題になっている。

本稿のタイトルに冠せさられている「デスハック」とは、その「ライフハック」の一環として、グロテスクな事象との有益な関わり方を模索するソリューションのことを指す。どんなに遠ざけようとしても確実に迫りくる死について思いを馳せることは、どんなに護ろうと足掻いても時間と共に少しずつ奪われてゆく生を思うことと同義なのである。そしてまた生とは動くことそのものであり、生と死の関係は動的な身体性と静的な精神性の関係にも置き換えられる。

そしてあらゆる表現手段は生と死に分類することが出来る。より動的な演劇・ライヴ演奏・講演・生中継といったものは今まさに生きている表現であり、過去に表現された映画・レコード・書籍・絵画などは既に死んでいるわけである。この事は録音あるいは録画されたものを視聴する際に使われる「再生」なる言葉が端的に表していることでもある。

それらの表現は如何に受信者の脳内で生きていると感じられるものであったとしても、発信者の脳内では既に死んでいる。忘れてさえいなければ改めて手を施すことは可能だが、既に発表されてしまった状態での表現の骸は回収不能であるから、あるいは死んでいるとも生きているとも言えるゾンビ的な状況であろう。

この構造は別にパッケージされたものに限らず、編集可能なネット上のコンテンツであっても同じである。それどころか今まさに上演されている演劇・ライヴ演奏・講演・生中継にしても同じで、それらは表出された傍から過去表現と化し、生まれた途端に次々と死んでいくのである。だからといってそれらを刹那的なものとしてニヒリスティックに批判しようというわけではなく、むしろ死を肯定的に受け止めることでポジティブな態度を持って考えたいのである。

けれど生きる事が動くことであるからには、これを死と呼んでいいものか迷うところではある。この世のあらゆる現象は生と死を行ったり来たりしながら明滅するものなのかもしれない。宮沢賢治の言葉を借りれば「わたくしという現象は/仮定された有機交流電灯の/ひとつの青い照明です」というべきものであるが、それは「わたくし」に限らず、生きていると看做されているもの全てに当てはまるものなのではないか?

そもそも「死ぬ」という言葉を誰が作ったのか判らないが、驚くべき事にこれは動詞なのだ。すなわち現象ではなく行為の一環であるからには、死ぬ事すらも動くこと=生きる事の一部なのである。これは日本語に限らず英語でも「死=デス/死ぬ=ダイ」であって、この用例は他言語にも通じるものであろう。

そうすると死は不可避なる運命として受け入れざるを得ないものではなく、自らの意思で行動されるものということである。それを示す具体例として、生死の境を行きつ戻りつする瀕死の状態で生への執着心の程度が結果を左右する事や、虐待死する子供の中には自らの身を案じ防御策として生命活動を停止してしまう悲しい言説もあったりする。

そしてまた生きているものを表現の殻に閉じ込める事は対象を殺めることでもある。あるいは侵し、ともすれば犯していることとも同義だ。好き嫌いに関わらず、我々が自らの思考を文字や絵画や音楽や舞踏や演技などあらゆる表現技法を駆使して採集する世界という名の昆虫は、採集箱の中で死骸を晒されることとなる。死体のコレクションは書架やハードディスクや脳内に山積され、発酵して更なる殺戮の動機となる。

こうしたナパームデスの反復が生きる事そのものの姿なのである。我々はもっとこのことに自覚的であらねばならない。そうしなければ罪の意識に苛まれる余り想像的行為を何も出来なくなってしまったり、逆に殺され侵され犯される危機に直面した際に適切に抗戦できず病んでしまったりするのである。

そしてそのためには明瞭な形で死を表出するグロテスクなものと対峙する必要がある。冒頭の繰り返しになるが「死」について考える事は、裏返せば「生」について考える事でもある。「豊かに生きるための技術=ライフハック」という言葉を最近よく耳にするが、本稿ではそれに呼応するような形で「豊かに死ぬための技術=デスハック」を提唱したいと考えている。

筋組織の破壊/再生の繰り返しによって筋肉が鍛えられるように、魂の耐性をつけるには鍛錬が必要である。ショック死というものがある。アナフィラキシー・ショックはアレルギー反応がきっかけで起こるが、これはセカンド・インパクトが危険とされている。たとえば僕も持っている猫アレルギーの場合、最初の反応よりしばらく経ってから猫と遭遇した時に喘息が発症した。アレルギー対象と距離を置くのが望ましいが、問題になるのはそれを回避するのが難しい場合で、花粉症などはどうしても逃げられない。

その場合にあえてアレルゲンを投与する療法がある。日本では認められていないが、アメリカにはある。僕の場合だと猫と暮らし続けるしかない。恒常的に体調は悪くなるが、そのかわり大発作の危険性も弱まる。大発作が起きなければショック死は抑えられる。これもデスハックだと考えている。

ネットのグロ画像でもショック死は起こり得る。出血性ショック死やアナフィラキシー・ショック死だけでなく、単純に驚きの余りに心停止するケースは稀にだがニュースでも報道されている。数年前には猫が自動車に轢かれた瞬間を見た女性が突然死している。そういった事態を避けるためにも、ある程度グロテスクなものに慣れておく必要がある。あるいはマスメディアがグロテスクな事件を嬉々として流し続けるのには、そういう理由もあるのかもしれない。

怒りや悲しみの衝動もアレルギー反応と同じで、小刻みに発散していれば大爆発することはないが、放っておくと大惨事に繋がり兼ねない。要はガス抜きということであるが、その手段は人それぞれの好みにもよるので、対象は多ければ多いほどいい。昔から「喧嘩慣れしておいた方がいい」だとか「思春期の劣情はスポーツで昇華される」などという発想もあるが、喧嘩や運動が苦手なら逆にストレスが溜まってしまうことも考えられる。その場合にテレビゲームや漫画やアニメ、小説や映画といった創作物は代替として有効である。

グロテクスな報道について検証するため現在では放送自粛されている過去のドキュメンタリー映像をネットで漁ってみた。『豊田商事会長殺人事件』や『サラ金の帝王・杉山治夫』の動画が見つかった。コメント欄には「なぜ助けない」とか「なぜ出演させる」といったマスコミ批判が多くて驚いた。

豊田商事事件の現場に居合わせた取材班は好きで集まっていたわけではなく仕事のため仕方なくそこにいるのである。これから人を殺そうという人物を諭して下手に刺激すると自分まで巻き添えになりかねない。生きるための生業としてそこにいるスタッフにそれをしろというのはどうかと思う。死にゆく少女を狙うハゲタカの写真でピューリッツァー賞を受賞した写真家は、その後のバッシングに耐えかねて自殺した。本当にグロテスクなのはどちらなのか。

表現の自由と自主規制は矛盾している。知る権利はあっても知らされない権利はありえないのではないか。知りたくなければ耳を塞ぎ目を背ければ良いが、偶然に入ってくることからは逃れられない。たとい自粛を要請したところで、カメラを通さない悲劇の現実が身近に起きたならどうしようもない。緊急事態にあっても冷静さを保てるよう備えるためにも耐性を身につけておくことは無駄ではあるまい。

知らんぷりをしていても事件は現実に起きているのであり、臭いものに蓋をしても中は腐り続けるばかりなのである。見えない場所に打ち捨てたところで他の人が迷惑を被る。同時にそれは自分の側になる可能性も増えるのだから、結局どっちに転んでも同じだ。ならば最初から全て見えている方が便利ではないか。自粛の多い世の中は悪事を隠すにもうってつけの不透明な空気を作り出してしまう。闇の中で身動きがとれなくなる前に、自らの活路を見つけられることを喜ぶべきである。

あるビートニクの詩に「アクション・イズ・ライフ、サイレント・イズ・デス」という一節がある。Tシャツに書かれていた文句なので詩人名は不明である。これはこれで真理にも思えるが、トーマス・カーライルの『衣装哲学』には「雄弁は銀、沈黙は金」なる箴言もあり、あえて沈黙することによって雄弁たり得る生の表出方法もあるだろう。確かに生きている事は動く事それ自体を指すけれど、動かざるものが全て死んでいると言いきれるだろうか。死んだはずの者が生き返るハプニングもあるし、映画に出てくるゾンビは死んでいるのに動く。

もしゾンビが存在したならば動く事が生きる事の条件であることと矛盾する。それは架空の出来事だと言え、我々は現実に死んでいるはずのものが生きている様を知っている。それは言葉である。言葉は過去に生きていた誰かが作り、それを我々が継承しているわけであるが、そもそもは死者の脳内で息づいていた精神の欠片だ。そういう意味においては言葉もまたゾンビなのである。あるいは言霊というものがあるように、それは死者の霊魂が憑依しているということかもしれないが、言葉という媒体を利用しているのだからやはりゾンビである。

ゾンビ伝説は映画や漫画において時にコミカルなものとして描かれがちである。ジョージ・A・ロメロ監督作もそうであったし、キョンシーに至っては子供たちから大人気だった。怖くない死者の存在を認知することで、怖れることなく死を受け入れられるようになる。これがデスハックの正体だ。

映画『バタリアン』の最後で汚染された地域に爆弾が落とされるシーンは、日本の敗戦を思わせる。伝統を持たぬ転がる石のようなアメリカにとって苔生す日本はゾンビの国なのである。だがそれも今や昔、ディズニーランドはミッキーマウスの死霊に活かされているゾンビランドであり、ウィンドウズもアップルもリサイクルゾンビだし、古本をスキャンするグーグルはミイラ取りである。デスハックとはすなわちゾンビ化することかもしれない。

ゴスロリ少女のリストカットに通じるところもあるだろう。元来女性には月経があるから血に慣れている。血を見ることで生きている実感を得るとともに、いつでも死ねるのだという安心感を充足させる。これもデスハックの一種だ。また葬儀とは、死者を弔うだけではなく遺された人間が故人のいなくなった今後の世界を生きていくためにケジメを付けるための行事でもある。

死への恐怖を和らげるために宗教が機能しているという側面もあるけれど、そうすると既に死んでしまった者にとっては意味がない。亡霊が葬儀場にいると考えれば違ってくるけど。基本的に葬儀ってのは死者を弔うというより生き残った者たちの心の整理をつける目的のほうが強いのかもしれないとは思う。そういう意味では葬式こそがデスハックの最たるものである。

高原英理は『ゴシックハート』で「教条主義に反発するもの」としてゴシックを位置付けている。そういう意味では僕が好むグロテスクなブラックジョークやゴシップさえゴシックに含まれる。ゴシップというのは芸能人の話ばかりではなく、911テロやフリーメイソン、ヤクザなどに関する政治的な陰謀論も含む。それらはグロテスクなものとしてTwitterなどでも嫌われがちだが、そこに照準を絞るジャーナリストは国内外問わず沢山いるし、なおかつ注目されている。

たとえば映画『華氏911』やロバート・ホワイティング、など。トンデモで一蹴されてしまっている節もあるが911テロの陰謀論に関しては政権をひっくり返す位の認知度があった。日本の場合にも2chなどでは民主党絡みで「友愛=私的死刑説」やら、児童売春組織の首謀者と目される人物が自殺し顧客名簿が紛失した「プチエンジェル事件」と政界の繋がりなども実しやかに噂される。本当のことは判らないが、謎が謎のままであることもグロテスクに思える。

「オカルトは隠されているからこそプラシーボ的な効力を持つ」と京極夏彦は書いていて、それは確かにあると思うが、どんな効果を生んでいるかさえ不明な状態では居心地の悪さを禁じえない。あるいはロックやパンクもそうであるが、それらはゴシックと融合しているし、初期ガロ掲載作品の白土三平水木しげる作品にもゴシック的なものがある。本稿ではそれをライハックと関連付ける事でデスハックと名付けてみたが、ゴシックとはほぼ同等のものである。

このことを念頭に次章からは個別の題材におけるデスハックの具体的な用例を検証していきたい。範囲が多岐に渡るため現段階では構想の一部しか完成しておらず、今回は想定しているうち一部のみの公開に留めた。ひとつは二次元児童ポルノ規制やボーイズラブなど性文化を巡る問題について、もうひとつは捕鯨規制やファスト風土など食文化に関する観点からという具合に、それぞれデスハックあるいはグロテスクといったキーワードを交えつつ考察する。

そしてまた『新大学』でこの題材を扱うのには理由がある。責任編集・松平耕一が『新文学01』に寄せた論考が秋葉原事件の加藤智大容疑者に言及していたからだ。彼のしでかした犯罪は僕が提唱したいデスハックとは異なり、ハックできていないデスそのものであった。殺人や事故をなくすためにインテリ層はどれほどのことができたか。それを為し得る道標を探る歩みにこそデスハック思想の精髄がある。ライトテロルの援護射撃として機能する武器にできればと考えている。

こじらせてしまった風邪が死因になるように、グロテスクの喪失をあなどっていてはいけない。何がひきがねになるかわからないサドンデスのルシアンルーレット。笠井潔のいう「例外状況が日常化した現代社会」を宇野常寛的に「サバイブ」するために「デスハック」なる武器を手に闘おうと考えている。武器とは殺すための道具だが、剣より強いペンを武器に革命を目指すライトテロリストが殺人をしないように、デスハッカーも害虫や家畜や非実在生命は殺すけれど、それらは本当にヒトを殺さないためである。殺さない為の武器といってもいい。

現代思想のパフォーマンス』において内田樹が「我々は構造を知らなくても道具を使う事が出来る。使えない道具は何の役にも立たないし、使わなければ理解できないこともある」と書いている。使われない道具は死んでいるのも同義で、使われることによって息を吹き返す。それもまたデスハックの手法のひとつだと考えている。なお足早の愚考ゆえ言及された事象や理論等に関する誤認や批判があれば、忌憚なき意見を請いたい。

  021「萌えロティック・性くノフィリア」補遺

「生殖」をテーマに掲げる準備段階としてこのようなタームを入れさせてもらったのは『新文学02』におけるネットサービスについての論考「ユビキタス・リテラチャー」にてクリアできなかったミッションが山積しているからである。そもそも「ユビキタス・リテラチャー」にて提唱した「世界は文学で満たされている」という概念はネットの世界だけに留まるものではなく、もっと幅広い分野に適用したい理念だったため、このような流れになった。

メルマガ前号にあたる『新大学01』の「萌えロティック・性くノフィリア」では、補足事項の第一弾としてネット内外における現代のエロティシズムを取り上げたが、事例が男性の嗜好に偏っていて見苦しい部分があったかもしれない。当初の予定では女性の嗜好にも言及するため腐女子文化に触れるつもりだったが、時間や字数の都合で割愛してしまっていたのである。そこで今回は腐女子と呼ばれる女性達が好むボーイズラブ=BL論を皮切りに、アングラ文化の核としてエロと対をなす「グロテスク」について考えてみたい。

決して僕がエロと同程度にグロが好きというわけではない。けれども二次元のゲームや漫画、あるいは文章におけるグロ表現は嫌いではない。ところがいざダイレクトに享受できる実写表現ともなると途端に腰がひけてしまうのは何故だろうかという、自身の嗜好の偏りを考察してみたいという側面もある。

二次元はよくても三次元は駄目との構造は、エロ・グロ両面に共通するものだ。グロは自らの死の恐怖を連想するから嫌って当然だが、エロはむしろ生殖への恐怖である。ここにはフロイト的な精神分析にて言及される「表裏一体のエロスとタナトスの関係」が深く影を落としている。エロスとタナトス、すなわち創造と破壊への欲求が対をなしているように、創造と破壊への嫌悪もまた対をなしている。いずれも価値観の重ならない異文化への恐怖心が根底にある。これはBLに対して免疫のない層にも顕著な態度である。

その一方でスカトロジーペドフィリアといった性癖は、今なおグロテクスの極みとして忌み嫌われ続けている。確かにスカトロジーは不衛生であるし、ペドフィリアは犯罪である。しかし風呂嫌いの汚ギャルや、SMの一環としての青姦は認知されている。僕自身はスカでもペドでもないが、そういう要素を含む漫画を読んだりして愉しむことはある。それらはあくまでファンタジーだからこそ許されている。それを現実にしたい願望があるわけではなく、興味本位の思考実験みたいなものだ。

人間の本能に根ざした数ある欲望のなかで、あけすけな性描写やら金に糸目をつけない食道楽ばかりが芸術の根幹をなす傾向はいかがなものかという反発心こそが、世にも尾籠なる背徳の世界に吾が愚かなる魂をいざなうのかもしれなくもない。実際、過去の芥川賞受賞作のなかにも肥溜め屋の逆襲という形で差別階級の悲しみという文学的命題を見事に提示してみせた『糞尿譚』なる傑作も出ている。

漫画では鳥山明出世作『Dr.スランプ』の「ウンチつんつん」が殊に有名だが、排泄器官を持たないロボット少女と排泄物のアンビバレンツなコントラストは、テクノロジーとアナロジーが渾然一体となった猥雑な近未来像を描く「サイバーパンク・ムーヴメント」の魁だったのではないかとさえ思える。

そもそも性器をグロと感じる者もいる。本来ならそれはエロであるべきものであるが、同時に護られるべき=隠されるべき大切なものでもあるから、やはりグロく感じる必要もある。誰の性器であるかという属性次第であるのが正常かもしれない。ところが属性を持たない匿名性器あるいや匿名ヌードに興奮するフェティシズムもある。それは「もしかすると自分の好きなあの人かもしれない」という妄想に基づくとも考えられるが、通常の感覚では属性不明の性器はグロテスクに感じられるものだろう。

例外状況に晒されることで感覚が麻痺し、より強い刺激を求めるようなことは危険にも思えるが、しかしそれは職業病的や何らかの病による場合もあるわけで、頭ごなしに否定すれば良いというものではない。逆にいえば感覚の麻痺によって本来人間が生きていくうえで必要不可欠な欲求の充足感が得られないことは、日本国憲法にも記されている「最低限の文化的生活」にも抵触する重大な人間性の欠如とも受け止められる。

このことは近年注目を集めている最低所得保障制度(ベーシック・インカム=通称BI)を議論する上でも見逃せない留意事項である。同様に政治がらみの東京都が目論む「2次元児童ポルノ規制条例」にも関連する部分がある。

法治国家において何らかの規制は確かに必要だが、それは臭いものに蓋をするごとき施策ではなく、作り手と受け手双方にとって望ましい寛容な措置であるべきである。単純に「未成年者から見えないようにする」のではなく、エロやグロに抵抗を感じる者がうっかり手を出してしまわぬよう、事前に内容がわかるようになっていればそれで十分だろう。いわゆる「何たらな内容を含みます」というものである。

手売りの場合なら作者や販売者に確認してもらえるだろうし、売場を工夫するなどしてカテゴライズ販売を仕組む事も可能だ。年齢や性別といった区分ではなく、嗜好に個人差のある事を理解しなければいけない。多様性を尊重しない政治によって「最低限の文化的生活」を誰もが享受できる社会を作ることは不可能である。

「文学は人間を描くものである」という言説がある。人間以外のものについて書かれていたとしても、それはあくまで人間が見て考えたものに過ぎないから、完全に人間性を排除することは最初から無理だとも考えられる。けれどそれは他者との交流もしくは自然の風景であろうとも読者にリアリティを感じさせるものでなければならない。人間を描くことはグロテスクと対峙することと同義である。『新文学01』における松平耕一の「ライトテロルの新文学」では「Webテクスト/ライトノベルケータイ小説」に新潮流のポテンシャルを見出していた。

加藤のケータイ依存が掲示板での心情吐露ではなく、小説という形で表現されていたなら、あるいは承認欲求を満たし得るものとして昇華されたかもしれない。その習得の困難さにおいて文学は、言語によるスポーツとも言えるように思う。何よりマラソンランナーでもある村上春樹などの作家が言うように、文学は体力がないと書き続けられない。

一流の編集者や大勢の読者の期待、そして評論家やライバル作家への牽制、そういった重圧に耐えながら売れるものを作っていかなければならないとなれば、その才能の継続には比類なき体力が必要不可欠である。作家に自殺者や短命の者が多いのも、そういった熾烈さのせいかもしれない。

ヘシオドスの『神統記』によれば、ギリシア神話の原初神カオスは、混沌というより空隙である。名付けようのないひとつの存在で埋め尽くされた空間は、何もない場所に等しい。カオスをカズム=亀裂ともいうらしい。大地のプレート間の亀裂もキャズムというが、女性器の暗喩かもしれない。確かに子を宿す女性は原初神である。カオスと同時期に産まれたエロス=愛と、カオスから生成されたニュクス=夜は性交のイメージとも重なる。

藤田直哉は限界小説研究会フリーペーパー『限界!もうだめ・ぽ』掲載の「無限の彼方の沼地へようこそ!」においてネットで「ネ申」として祀られるバーチャル藤田や田代まさしらについて、2ちゃんねるの<祭り>の中で機械化され、意識や主体が空白になるというエロス的体験の中で到達してしまう「向こう側」を「ビヨンド・インフィニティ・マーシュランド」と名付けた。

熱狂の中心部に位置する理解不能の「空白」こそが深遠なる神の聖域であるならば、そこに近付く事はバタイユのいう「小さな死」として宇宙の連続性と一体化する官能である。その時、われわれは不死と完全を手に入れることができる。けれどもそれはほんの一瞬しかいられない場所なので、定期的に反復する必要がある。酒や煙草のようなものかもしれない。

  032「BL/TL/百合/JUNE/薔薇族/ゲイ」

腐女子と呼ばれる女性が好むBL(ボーイズラブ)では、男性同士が性的交渉を持つ。80年代に男性同士のプラトニックな同性愛を賛美した『JUNE』や『アラン』といった雑誌周辺の文化では、精神的な恋愛感情の機微から先へは進まない腐文律もとい不文律があったそうだが、目指すところは通常の恋愛と同じく身も心もひとつに重なり合いたい願望だろう。

作者および読者の大半は腐女子と呼ばれる女性達であるが、これは女性特有の文化というわけではなく、逆に男性オタクが女性同士のレズビアン描写を好む場合もあり、かつまた近年では女性としか性交渉を行わない男性でありながらもBLを愛読する「腐男子」なる属性すら登場している。筆者自身もまた内縁の妻の影響で多少その自覚がある。

けれどそれはホモソシアルの歴史を考えれば何ら不思議な現象ではない。かつての日本あるいは世界中の至るところで、ショタコンロリコンはほぼ同一の文化として普及していた。プラトン『饗宴』においてソクラテス少年愛の教育的重要性を説き、日本の若衆道や男色の起源は『日本書紀』にまで遡ると言われている。特に戦国時代や江戸時代。従軍慰安婦ならぬ慰安夫のようなものだったとも考えられる。生殖とは関係がないという意味において男色と腐女子は似ている。

闘うことと愛し合うことが表裏一体だからともいえよう。北斗の拳においてケンシロウ、トキ、ラオウらが愛し合っているように見えたのは錯覚ではない。そもそも性的特徴の差異が内外ともに少ないのだから当然であるともいえよう。一般的にそのような倒錯的性愛はグロテスクなものとして忌避される。

けれど社会の多くの場面において、セクシャリティそのものがグロテスクなものとして敬遠されている現代の状況下から鑑みれば、いわゆる正常な性愛と変態性愛の間に大きな違いはない。ではなぜそれらはことさらに普段の日常生活から遠ざけられてしまうのか? そこにグロテスク表現と人類の重要な関係が隠されている。

秘匿されるべきものだからこそ淫靡であるという価値観を持つ層からすれば、BLの如き明け透けで奔放な性の在り方は忌避すべき顰蹙の対象である。しかしながら現在のところ小児性愛ペドフィリアを中心としたロリコン撲滅運動が盛んなのに対し、BLは野放しになっている。それは支持層の身体性と表現内容の不一致さゆえに、実行が不可能であるからかもしれない。とはいえ完全に許されているというわけではなく、大阪府の図書館に大量に置かれていたBL本が排除される騒動もあった。

その際、純文学と呼ばれるものの中にもポルノ紛いの作品は沢山あるではないかという反論がなされた。それどころか児童書図書館にはロリコン漫画の在庫も多数あったという。性倒錯文化にはBL以外にも薔薇族やサムソン、さぶといった傾向の違いもあり、ゲイやレズビアン、オナベにオカマに女装・男装、バイセク、漫画家・新井祥のような両性具有の人もいる。なお新井祥は、テンパリスト等で知られる東村アキコの元旦那だった怪人社代表IKKANの前妻である。ややこしいうえに関係のない話で申し訳ないが、両性具有者の立場を公表している知名度の高い人物ということだ。

いずれにせよ公言できる類のトランスジェンダーは、今や決してマイノリティではないとも言える。草食系男子が増えているせいなのか、逆に「ドS男子が好き」だとか「私ってドMなんです」と平気で女性が言う場面をテレビや街中でしょっちゅう見かけるほど、SMもすっかり市民権を得ている位である。もはやマイノリティこそマジョリティなのではないかとすら思える。

斎藤環戦闘美少女の精神分析』によれば「権威的に振る舞う女性=ペニスを持った母親=ファリックマザー」なる精神分析の鍵概念があり、それはアウトサイダーアーティストのヘンリー・ダーガーが夢想した男根を持つなどを例に指摘した「男根を意味するファルスを持った少女=ファリック・ガールズ」の構造はBLにも見てとれる。腐女子の身体性はBL作品で乳繰り合う美形男子と合一することで、性差を超えたエクスタシーを感じとろうとする。そこに彼女たちの姿はない。

心霊や精霊のごとき傍観者として性的充足を得る様は、もはや動物本来の欲望とは懸け離れた形而上学的なエロティシズムへの希求心である。それは祈りにも似た忘我の境地。男性を凌駕すべく社会進出を果たしたウーマンリブとは異なり、男性の気持ちを理解しようとする古風な異性観の裏返し表現である。すなわち腐女子ツンデレ属性を併せ持っているのだ。

理想のセックスは共にオルガズムに至るものであるが、男女の心身の乖離がそれを困難にさせる。けれど男性同士であればそれは可能だ。なおかつ傍観者として両方に自らを投影する限りにおいて、双方の感覚を同時に味わえる。男性同士の性行為は生殖とは無縁である意味において、マスターベーションに近いところがある。女性が女性であることを気にせず愉しめる世界はそこにしかないのかもしれない。やおい脳を武器に男性社会と闘う腐女子も戦闘美少女に他ならない。

高原英理は『ゴシックハート』のあとがきでゴシックについて「撫でられるため素直に頭を差し出す種類の表象ではない」と述べている。つまりゴシックはツンデレなのだ。そういう意味において間接的に異性愛を希う腐女子もまたツンデレであり、なおかつそれはゴシック的なのである。

一般的にゴスロリ少女といえばむしろ男性を振り回すメンヘラあるいはヤンデレ属性のイメージであるが、腐女子とメンヘラはその小悪魔性において重なる。異性との性交渉を嫌う腐女子に対して、メンヘラはむしろ異性からの愛情に飢えているような傾向があり、相手に執着するがあまり、他の人間関係は勿論のこと、仕事や趣味といった自分への興味を削ぐ障害となり得るあらゆるものを敵対視しては、相手を束縛しようとする。

対して腐女子は自らの男性化願望の投影のゆえか男性同士の架空のまぐわいを女性同士で愉しむことに執着するため、自分自身の異性との性交渉に関しては淡白である。あるいはそれは男性化願望が背景にあるがゆえ、むしろ百合的な側面さえ併せ持っているのかもしれない。事実BLに登場する青少年たちは中性的な容姿をしているケースも少なくない。

以上の考察はあくまで僕の経験上から浮かび上がる一元的な妄想に過ぎず、リサーチなどの根拠に基づくものではない。だから実際には同性より異性を好む腐女子もいるだろうし、百合のメンヘラだっているはずだ。またBL作家が兼業して描いていたりするTL=ティーンズラブは異性同士の過激な性描写を売りにしている。登場人物は十代が中心で、いわば女性向けの児童ポルノとも言うべきもの。若者同士/先生と生徒などパターンは多く、読者層はBLとは被らず、特殊性のない普通の女性が多いと訊いたこともあるが、実情に関しては現在調査中である。

ところで僕は上野樹里安達祐実に性的な魅力は全く感じないが、いずれも好きな女優ではある。どうしてかは良く判らないが、むしろ彼女らがセクシーさを前面に出していたりすると腹立たしい位でさえある。でもやっぱり表現者としては好ましく思ってるので自分が不思議でならない。性的にはヘテロだけれど「美」の観点から鑑賞対象にする分には性別は問わない。

篠山紀信が撮ったモッくんの写真集なんかも美しいなあと思いながら眺めていた。けれどそれは性的な感情とは別種のものなので、美男子といちゃつきたい願望はない。あくまでそれは鑑賞対象なのである。プロレスや少年漫画に熱中した事があれば「鑑賞対象としてのホモセクシュアル」という感覚は理解して貰えると思う。キン肉マン超人のフォルムに対する男の子の憧れは自らの理想像への自己愛であるが故に同性愛的でもある。

ニーチェの超人論にもローマ人的肉体とかいうのがあった気がする。だがそれは中性的なものに憧れる薔薇族とは別種のものである。男ゆえに男らしさに憧れる文化。ヤンキー漫画。『闇金ウシジマ君』や『ホムンクルス』における「裏スピリッツ」的な文化は、マガジン・チャンピオン的なヤンキー精神と、ガロロ的なリアリズムが交差するオルタナティブ空間である。

斎藤環『ひきこもり系と自分探し系』リサーチの結果、原宿にたむろする若者にはひきこもり系が多く、渋谷は自分探し系であると。以前に白石昇さんとネットとストリートの件で議論になったことがある。ゴシックやリスカ、SMといったグロテクスなオタク趣味は原宿系に近い印象があるが、渋谷は渋谷でやはりグロテクスである。死とは全体に溶け込み透明な存在になることである。

亡霊や妖怪、鬼神の類はまさに空気のようにあるようでなく、ないようである。自己を流行に埋没させ時代に身を委ねるがままのスイーツ層や、自己を匿名性に隠蔽することで動物化したオタク層もまた、ある意味でゾンビに等しい。そのような人物を君は見たことがあるはずだ。景色の一部と化した路上のホームレスや新宿駅前に週5日「私の志集」を売るため立ち続ける女性や、横浜メリー。彼らは生きながらにして神霊と化している。

  043「不倫/心中/セックス依存症

ハーレクインと児童ポルノは「生殖と無縁」という意味において同等である。動物的本能と乖離している点において「不倫は文化」という言葉は言い得て妙。ただしそれは築き上げてきた多くの者を犠牲にするからエロスというよりはタナトスに近い。石田純一は「不倫は文化」と言ったが、本当にそうだろうか? 確かに反社会的な秘め事という意味ではそういう側面はあるだろう。けれどそれは動物的なものである。草食男子のオナニーと対極に位置する。

昼メロやトレンディドラマでは不倫や掛け持ち交際、近親相姦が描れがちである。近親婚というより近親交配の問題は劣性遺伝にあると言われるが、それは有利に働く場合もある。けれども普通と違ってしまうから恐れられる。近親交配でなくとも遺伝の多様性はかなりのものであることを考えると、才能と呼ばれるものの多くは環境に依拠する後天的なものと考えるべきだろう。ただし容姿や疾患因子など環境だけで対応しかねるものに関しては出来るだけ出にくいよう近親交配が良くないとされる。けれども劣性遺伝が必ずしも悪い方に転ぶばかりではなく、逆に超美形や大天才が産まれる可能性もあるせいなのか、禁忌を犯す者は絶えない。

一神教多神教の対立は厳格な父性と奔放な母性の対立と説明されることもあるが、勝間和代西村博之の対談では、勝間=父性/ひろゆき=母性というように逆転して見えた。この関係性はツイッターをギミックにしたフジテレビ系列の連続ドラマ『素直になれなくて』にも見てとれる。

仕事の交換条件として好色な雑誌編集長に籠絡される編集者リンダは男で、編集長は女性。ナカジが逢瀬を続けてきた相手は人妻。男女が逆転していると昔から良くあった構図になる。厳格な父性と奔放な母性そのままのイメージが反映されていたと思しき『東京ラヴストーリー』は、バブリー感覚なトレンディドラマの代表格として名高いが、元々は『ビッグコミックスピリッツ』の連載漫画だった。スピリッツで長期連載されている『気まぐれコンセプト』は広告業界の視点からトレンド情報を揶揄する実にバブリーな作品である。作者はクリエイター集団のホイチョイプロダクションズ名義になっている。彼らはテレビ広告を牛耳る電通とも太いパイプで繋がっており、それがスピリッツとテレビ業界の結束にも関連しているのかもしれない。

電通は出版広告の分野では余り活躍していないが文芸評論家の渡辺直己電通文学にまみれて』によれば、軽薄なテレビ文化が文学をダメにしたそうである。正確には日本のテレビ的なるものの背景にハリウッド的文化があると思われる。東浩紀は『動物化するポストモダン』において、現代の若者像を「アメリカ的動物」と「日本的スノッブ」に分けた。ロラン・バルトが『表徴の帝国』において「意味の喪失=悟り」として日本を論じた事とも呼応していると思われる。

また『ゲーム的リアリズムの誕生』ではキャラクターに命を吹き込む為に「死」が機能しているというような説明がなされている。物語を構成する頻出要素は「愛と戦と死」である。愛には恋愛・家族愛・友愛・人類愛が含まれ、戦は仕事・趣味・そして愛を勝ち取り、かつ保つこと、それに負けると死が待っている。あるいは闘病など愛と死が結合することもある。すなわち「死がエンタメとして機能している」ということになるが、そもそも生命の誕生がそのサイクルなのである。強い精子だけが生き残り、他は死ぬ。

岸田秀は『ものぐさ精神分析』の「日常性とスキャンダル」において、本能の壊れた人間はそれにかわり自我を支える為の幻想の中心に聖なるものを置く必要があり、そこから抑圧されたものは穢れとして排除されると説明している。そしてその聖なるものの権威を保つために穢れを洗い流し純化しなければならないと。思想に基づいて行動されるばかりではなく、行動が先んじることで思想が後付けされる場合もある。

クリスチャンである遠藤周作の『恋愛論』にも「好きだから関係したんじゃなくて、結ばれてしまったから好きにならざるを得ない」というロジックにより前近代の日本における「夜這い」文化の精神分析的見解を示した。だがそれは岸田秀が『ものぐさ精神分析』などで「黒船にレイプされた日本のナショナリズム」という文脈などから説明してきたように本音を抑圧して思い込んでいるだけなので、いつかは無理が来て破綻する。

これは東浩紀が『動物化するポストモダン』でコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』をヒントにして掲げた動物化にも言えることのように思える。同書には現代日本の思想傾向を代表するオタク気質には、鎖国による江戸文化がベースになっている節もあると洞察されているが、これは岸田秀フロイトから得た抑圧と反動のサイクルにも呼応する流れに思える。必要があって動物化したというより動物化したら生きやすかったというように。

先日ツイッターで「赤い糸」に関連して「運命の相手」がア・プリオリな概念であるならば先天的に付随していた属性に対応しているので、自由意思と思い込んでいても実は環境によって後天的に植え付けられただけだったりする理由で「好み」の方が間違っているという可能性もある、というようなことを書いたが、それも同じようなことだ。偶然から生まれた行為が良い結果を産むことでそれ以降は必然的習慣として踏襲されていくのは、人間の営みにおいて珍しいことではない。

進化論とも接続する。つまり共時性が新たな指針を与えてくれるわけで、それはオカルティックなものに視えなくもないが、そのようにして慣習の礎が決定される場合が殆どかもしれない。批評の世界においても読書や対談や座談会など他者との出会いがトリガーとなり融和できていなかったものが突如結合して新しいものが生まれたりする。

必要は発明の母というが、発明が必要に先んじることもある。ソフトバンク孫正義会長は若かりし頃にアイディアを得る訓練として気になる言葉を単語帳に記しては、それら二つを照合することで発想のきっかけにしていたという。これも事物が思想に先行する例である。

「綺麗は汚い、汚いは綺麗」シェイクスピアの『マクベス』で三人の魔女は謡う。松尾スズキの『キレイ』で主演女優は鼻くそをほじって舐める。奥菜恵はやってのけたが再演時には酒井若菜が降板し鈴木蘭々が演じた。『アバター』における異星人のグロテスクな風貌がストーリーが進むにつれ主人公にとっても観客にとっても愛おしいさを増し、ついには美しくさえ感じてしまうのは、われわれの美意識というものが先天的な本能に基づくのではなく後天的な価値観の学習能力によって作られた幻想でしかない事を証明しているように思える。

ソシュール言語学では「言葉は世界を表現するものではなく、言葉によって世界が作られる。そして言葉とは文字や音声それ自体ではなく、脳内で再生される文字や音声のイメージであり、それが曖昧な世界の事象に対するイメージと重なって成立する。つまり言葉によって作られる世界とはイメージの世界であり、イメージなくして人間は世界を理解する事が出来ない」と説明されている。

映像にしろ言葉にしろ、その意味を我々が理解できるのは情報を脳内で意味付けするイメージ変換能力が備わっているからであって、モノそれ自体に意味があるわけではない。そのイメージの世界にフィクション/ノンフィクションの区別はない。だから我々にとってのリアリティもそれが現実か否かとは別次元の問題として成立しているのである。

  054「フェチ/SM/児童ポルノ

紫式部の『源氏物語』や谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』などからも判るように日本の伝統的な情緒的価値観においては色恋沙汰は秘め事ゆえに官能的なのである。モザイクの存在もそこに起因するのかもしれない。そう考えるならば児ポもBLもセクマイも手放しに解放されればいいというわけではない。

先日ツイッター東浩紀がメモを残していた前島賢セカイ系とは何か』の一節「セカイ系という言葉は当初から批判的な意味合いを持っていたし、実際、批判的に使われた。にもかかわらず、セカイ系は隆盛した。すると、むしろ、セカイ系は批判との共依存的関係にあるのではないか、という疑問が湧いてくる」(p.197-198)というのも同様のことである。

隠蔽され迫害されることによってより神聖さを増すのがエログロが絶えない理由のひとつでもある。むしろ明け透け過ぎて萎える場合すらある。だから規制は受け入れつつ一部の親が子供に与えればいい。それも規制される可能性はあるから、やはり抗議は必要である。

生きるとは動く事なのであり、敵味方の拮抗の中にこそ花開く。止められれば止められるほど魅せられ、隠せば隠すほど見たくなる心理というのも、その摩擦にこそ生のダイナミズムを感じられることの証なのではないか。そしてそれは倒錯的な変態性欲においても同様の機構が働いていると思われる。

そもそも人体そのものがグロテスクであり、三次元元に興味を持たない若者が増えた要因でもある。衛生的な環境で暮らすうちに寄生虫を宿さなくなったため免疫がなくなったこととも関連があるだろう。それでもなお不衛生な嗜癖を持つマニアはいて。とはいえ二次元における表現には不衛生なものが数多くある。いやらしい液にまみれたエロ表現だけでなく血にまみれた残酷描写もまたコミックやゲームが有害判定される理由でもある。

すなわち若者は決してグロを嫌っているのではなく、むしろそれらを平面に閉じ込めることによって自らに仇なすことなく楽しめるよう工夫したに過ぎない。だからこそ凶悪犯罪につながることも時にはあるが、基本的には安全な場所にいて遠巻きに眺めることを良しとすることから、あくまでそれはレアケースに過ぎない。

アイドルは歌が下手でも構わなかったり、皇族を一般人同様に扱うのは不敬とされる。ところが市井にもミニ天皇みたいな立場の人間が沢山いる。世の災厄を一手に引き受けるがゆえに神聖視される構造からすれば、ニートすら当てはまる。ニートの病気性について正確なデータはないが兼好法師の「狂人のふりして大路を走らば狂人」の観点からすれば、社会通念から逸脱していることそれ自体が病的である。

しかもそれを治癒させる手立てがないとすれば社会現象として対策を練っていくしかない。家庭内の軋轢を考えたならベーシックインカムはそういう問題を少しは解消できる。荻上チキが言っているような援助交際にしてもそうであろう。それしか手がないというのは理解できないが、ウシジマ君的なリアリティというのもあるのかもしれない。

カプセルとバフュームは声が電子的に加工され過ぎていてヴォーカルの区別が付かない。本当に唄っているのかすら疑わしい。けれどもそれがいいとファンはいう。そもそもアイドルのユニゾンは声が重なるので上手く聴こえるというのもあり、そこに個性は埋没される。

SMAPの中居の音痴ぶりは有名だが全員で歌っていると判らない。アイドルの歌は唄を聴くためではなく唄ってる素振りを観たいだけとも言える。あるいは肉声を奪われ義務的に唄わされる機械性に嗜虐的に萌えている。それは器官なき身体への希求かもしれない。

フェティシズムが自分に向かうとナルシシズムになるわけであるが、セルフヌードもそういうものだろうか。人に見せるという意味ではマゾなのかもしれないし、見たくない相手にとってはサディスティックでもある。そこら辺の感情は複雑に絡み合っていてどれが根底にあるか一概には言えない。けれどもそれらの行為がアートの一環として機能している。

ボンデージファッションはSMとハードゲイ両方が好む。ゲイカップルの営みにはアヌスが使用されるためSMの様相を呈せざるを得ない。男女間でも同様のプレイはあるが、そこには疑似ホモセクシャルもしくは疑似ペドフィリアの側面が見え隠れする。排泄器官である事を考慮するとネクロフィリア的でさえもある。あらゆる倒錯的フェチシズムには同種の欲求が横断しているともいえるだろう。フロイト的に解釈するならそれはエロスとタナトスの相互補完による完全なるエクスタシーの境地である。

日本でパイパン女優の活動範囲が限定されてしまうのは、ヘアヌードでなければ具が見えてしまうからである。 本音と建前を使い分ける日本の特性としてポルノ市場においても表と裏の乖離があるわけで、それは そのまま表社会と裏社会のシノギを分かつ日本ならではの経済原則でもある。変態を考察するに当たり男女差があってはいけないと「美少年」でググってみたら「ビョルン・アンドレセン」の画像が上位に出てきた。

中性的な美しさを湛えていると感じたが、そういう意味では美意識に性差なんて本来はないのかもしれない。 児童ポルノ問題を解く鍵はそこにある。美とは何か。それは憧れの対象である。そこに失われた過去の自分を投影している場合もあれば、あらかじめ失われていた資質を埋め合わせる対照的な存在であったり、ナルシストにとっては自分自身に似ている事を指す。要は自分との比較に根差すもののように思える。若かった頃の体力や美貌は美しく感じられる。

児童ポルノに対する嫌悪感にも自らの現状との比較に基づく嫉妬的情念が背景にある気もしてくる。年齢差を超えた恋愛を否定することは、世代間格差を伴わないシンパシーの否定に繋がる。それは親子間の絶望的断絶を認めるようなものではなかろうか? 自分自身と愛する人の面影を継承している自分の子供が可愛いのは本来なら当然である。けれど自分自身を好きでなかったり相手を愛していないということになると、その理屈は通らなくなる。

岸田秀は人類の本能は壊れているので動物のように無条件で子供に愛情を注げる親も少ないと言っている。あくまで壊れているのであって失われたわけではないから個人差はあるにせよ、多かれ少なかれ野生動物のように本能の赴くまま生き抜いていく事は困難である。規律訓練の結果として本能が壊れたのか、本能が壊れたから規律を必要としたのかは鶏が先か卵が先かという水掛け論に陥ってしまうので判らないが、現状を見る限りそのようにして社会は形成されてきた。けれどそれは本能を過剰に残す者にとっては抑圧であるため、時に暴発して戦争の種になったりする。

ポルノ買春問題研究会がオムツCMまで規制対象にしようとしている話には呆れるしかない。元ネタを確認したところ「大人の女性の吹き替えで、大人のようにしゃべり、そして、最近オムツを変えたんだ、とか何とか言いながらその中居君にスカートをめくり上げて、オムツを見せるというコマーシャルです。これは、小さな子どもを成人女性とダブらせて、明らかに性的なニュアンスをにおわせつつ、スカートをめくらせるというもので、子ども虐待であるとともに、性差別的である」との話。

これに関してはTwitterにおける東浩紀の反論が当てはまる。「創作物におけるロリコン的表現は性的な対象とは成り得ないはずのものに性的イメージを植え付ける想像力であり、それは例えばロボットや動植物を擬人化するのと同じだ」としている。これは3次元のアダルトビデオでさえ同様であると僕は考えている。AV女優は「女優」と名付けられている通り役目を演じているに過ぎず、それは現実のようでいて現実ではない。男優も同じである。

鬼畜系のエロゲやAVは暴力的だから規制しろというが、ヤクザを引き合いに出さずとも警察や自衛隊は暴力で治安を守っている。スポーツも基本的に暴力であるし、学校や仕事における競争も暴力的だ。エロゲやAVにも当然ルールはある。ルールのないゲームなんてないし、AV女優は事務所に所属しているからルールを守らない男優や監督や製作会社はただでは済まされない。興行にはヤクザがつきものだと福田和也も言っている通りアダルト産業も芸能界の一部なので、当然ながらそういった繋がりはある。

そしてそれは権利を守る為の競争という意味では極めて真っ当な社会の一部でもある。企業が弁護士を雇うように用心棒を雇う。それだけの話だ。トラウマを感じさせるから規制しろというのであれば、宗教やゲイにトラウマのある僕の為に自治体が宗教やゲイを規制してくれるのかいうとそれはありえないわけで。一部の人の意見だけが通るのは不公平である。

テレビのハプニング集や衝撃映像の類も、人の不幸を笑うという意味では悪趣味に違いないが、それを非難する声は少ない。程度の差ということになるだろうが、問題はその線引きがどこにあるかということ。これは東京都の2次元児童ポルノ規制条例にも絡む。

世界一小さな成人としてギネスブック入りしていた何平平さんが、先日21歳で亡くなった。同じく世界一大きいとしてギネスブック入りしていた男性とのツーショットは、さながら指輪物語などファンタジー小説から抜け出してきたかのような非現実性であったが、しかし彼らは決して非実在青少年ではない。

なおかつ近年のギネスブックでは巨人症や小人症の症例は除外しているようである。すなわち彼らは病人ではないのだから、それが見世モノ的に扱われたからと言って、過去のケースと同じに批判は出来ない。しかもメディアに扱われたくないからと認定を拒否している人もいるそうである。

彼らが認定を受けた理由は定かではないが、拒否する権利もあったわけである。では何故、病気ではなかった平平さんが夭逝したかというと、これはおそらく仕方のないことで、小動物の平均寿命が短いように、彼の身体機能の限界だったということかもしれない。無差別殺人や無差別テロという言葉もあるように「差別しない」ことが悪として批判されることもある。

本来であれば現実を包み隠さず伝えることこそが差別なき報道の在り方であるが、差別を糾弾するふりをして隠蔽する差別というパラドシカルなロジックが更に一部の現実をブラックボックス化する。一方でブサイクを売りをした芸人はテレビに出まくる。

差別とは貶めることと同じではなく、美人やイケメンだって差別である。白木みのるがNНKに出演を許されなかった問題。しばらく舞台のみで活躍していたが、01年ミスチルCMを期にテレビに復帰。ついには連続テレビ小説でNHK初登場まで。ゼロ年代白木みのるがテレビに復帰した時代でもあったのだ。ちなみに現在ウィキペディアには身長120センチと書かれているが『てなもんや三度笠』珍念役で人気を博していた30歳の頃は110センチだったが、その後も身長は伸び続け140センチを超えたそうである。

なお児ポと海外への子ども手当支給には関連があるようにも思われる。日本人の父親から認知されている現地妻の子どもを児童買春から救えるかもしれない。出来れば誰でも救いたいところだが国益を考えたらそれは難しい。現地妻を作ることを許容するのかという批判もあるかもしれないが、そういうことではない。(つづく)