竟乃辺譚(ついのべたん)に巣喰はれし吾が脳髄の塵芥(ちりあくた)

・南洋文芸通信社『月刊(?)Twitter小説 Vol.2』収録(約6,800字)

「♪つゐつゐのべのべ〜たたむたたりら〜はつしゆたぐたぐ〜」「愚にも付かぬ胡乱な謡。あはれ髑髏の裡に蟲ぞ蠢く病なりしか」「脳髄の膿みたればこそ蛆より育ち」「枯れて猶ほ肥やしになるや君が脳」「瑞々しきこと鮒鮨の如し」「釣餌にもならぬ」「腐りてこそ旨し。脳も味噌ゆゑ」 #twnovel

これはツイッター小説の一例。ちなみに僕の書き下ろし新作である、というのも大仰だが。さておきツイッター小説とは、インターネットサービスTwitterで現在流行中の「#Twnovel」というハッシュタグを含む140字以内の創作群を指す。

その来歴や留意点、創作方法などについては本誌前号における@loveone6 @Orihika 氏の考察を参照されたい。今号においても何らかの言及はあると思われるため、本稿においては極めて個人的かつ偏屈な観点から、微力ながらもその魅力を少しでも伝えられればと考えている。

などと書いてはみたはいいが、既に締切日を過ぎてなおテーマが定まらず窮地に立たされているのであった。ツイッター小説をテーマにした私小説を絡めて評論と創作の境目に位置するような雑文にしたいという漠然とした目標はあるが、どこに行き着くか分かりやしない。

何故これほどまでに思考回路が淀んでいるのか言い訳させて貰うと、現在並行してグロテスク論を書いているせいもあって頭が切り替えられないのである。のっけから不気味なワードが踊っていたのはそのせいだろう。

とかいいつつ本当のことは分からない。恰好だけ真似ても駄目だと新城カズマ先生も『物語工学論』で嘆いておられた。至極当然の理屈である。円城塔先生の筆名の由来でもある物語生成機械たるべく書き散らしてみても、その実ヒューマニティから逃れられないのは言霊の呪縛に他ならない。

だがしかしサイバーパンク小説の小道具が知らぬ間に現実を侵食している世相からすると、その境界線も曖昧になっているのだろう。そのうち現実と空想の区別をつける必要すらない時代が、いやあるいは既に親の知らぬ間に子が成長するようにして世界の脳化は想像の先を超えているだろう。

ところで「#Twnovel」をそのまま読むと「ツイッターノベル」となることから「ついのべ」なる略称を用いるユーザも少なくない。そこから派生してツイッター小説の象徴であるタグに親しみを込めて「ついのべたん」なるキャラクターを作れないものかという動きも水面下にはある。

本誌上において何らかの形で実現しているかもしれぬが、いずれ「ついのべたん」が明瞭な輪郭を得て我々の前に現れる日も近いであろう。本稿を「ついのべたん」とコラボしたい向きもあったが、いかんせんイメージがまとまらぬこともあって、別の側面からのアプローチに方向転換を試みるに至った。

「ついのべたん」の「たん」とは、ネットあるいはオタク用語として定着しつつある「ちゃん付け」の幼児語である。だがこれを変換して「譚」と受け取ることで「話」の意味を付加することも可能だろう。「ついのべに関する話」すなわち本稿のことである。更にこの「ついのべ」にも漢字を宛てて「竟乃辺」としてみる。

「竟(つい)」とは「終わり」を指す語であり、「竟乃辺」の成句を結ぶと「終わりの淵」であろうか。死者が彷徨う三途の河原のイメージが脳裏を過ぎる。そこはいかなる空間であろうか。作者の脳内で生を得た物語は、文字として衆知に晒されることでいったん使命を終える。いわば読者の脳内で新たな生を得る糧として作者の手を離れていく。

だからオンラインのTwitterにせよオフラインの書籍にせよ、文字の世界には生も死もない。太古の文豪が遺した言葉も今をときめく流行作家の世界も、等しく生を得ると同時に完結した物語として墓標の如く安置され続ける。生きたり死んだり輪廻転生を繰り返す言葉の墓場にしてリサイクル工場でもある。それが文字の世界。

ツイッター小説はその黄泉の岸辺を身近に感じさせてくれる、この世とあの世の境目に偏在する天使あるいは守護霊のようなものかもしれない。意識の水面に次々に浮かんでは消える水泡の如き意識の欠片たる呟き=ツイートに時おり含まれる物語成分・竟乃辺譚は、共にタイムラインのカオスの中で他者のツイートと融和され塵芥の如く雲散霧消し、形を変えて再び自分に還ってくる。この私があの私と分離して、その私に融合する。どの私がこの私であったか誰にもわからない。

こうした人と人との意識交換の狭間にこそ人類の「人間」たる所以が隠されているのではないか。目に見える物質世界の構造や地図は急速な科学や文明の発達にともなう学術的考察で詳らかにされてきたけれど、見えない精神世界の構造や地図については、さほど研究成果が如実とはいえないように感ぜられることがある。

特に古くから続く宗教上の教えが今なお権威を保っていたり、歴史上の逸話に教わるべき教訓が絶えない状況から鑑みるに、いかに生活環境の整備した現代社会においても人間の内面自体は殆ど変わっていないのだろう。

コンピュータは脳に良く似た構造として比較されることがあるが、ツイッターは意識交換の精神世界に近い構造を持っているのではないか。そこから生み出されるツイッター小説は、作者それぞれの個人史として、そして時代を象徴する流行としてだけではなく、いつしか神話にも似た叙事詩として後世に語り継がれていくのかもしれない。

筆者はこの現象に多大なる恩義を感じていて、何よりそれを伝えたいのである。そこで少しばかり自分語りをさせてほしい。内藤みか先生の自伝的小説『私が作家になる日まで』の主人公同様、僕も本が好きで作文が得意な子供だった。

中三でようやく小説を応募するも成果はなく、半年に一回くらいのペースで新聞に政治的な投書が載るのが唯一の励みであった。高校ではまとまった長さの作品は書けず、演劇の脚本が一番長かった。更に上京して新聞奨学生をやりつつ浪人した辺りから人生の大変さが重くのしかかり、ついには全く書けなくなった。

予備校時代に雑誌に論考が掲載されたことはあったが、それから10年以上もの間、小説は書けず終い。大学では詩歌を応募したりはどうにかできたけれど。専門誌に載っても周囲では誰一人読んでいなかったが、メジャー誌の佳作欄に名前だけ出たり1行コメントが載っただけで友人に指摘されたりということはあった。大手の求心力ってのは驚くべきものであると思い知らされた出来事であった。

高校で一度だけ地方局のテレビ番組に出た時も同級生から電話がかかってきた。テレビはその後2回ほど出ており、いずれも作家志望の肩書っていうか肩書じゃねーだろって感じだけど、それも困ったことに実家の親が観てたりなんかして。成功してもいないのに名前や顔だけは割れていて、どうにも奇妙な状況だが、これはネット社会では珍しくないことでもある。プロアマの境界線が曖昧に見えるツイッターを知るに付け、ますますそれが理解できてきた。

ツイッターのふぁぼ率はオフラインの知名度と関係なくツイートの威力を客観的に判断できる便利な指針である。ツイッター小説においてもふぁぼ数は創作の励みになる。現在『週刊少年ジャンプ』で連載されている『バクマン!』は平成の『まんが道』みたいな物語であるが、そこで主人公らの未来を占う読者アンケートの存在は規模こそ違えど、ふぁぼったーに近いようにも思える。

花は褒められて綺麗になるというが、見られてこそ綺麗になるという側面もある。文章だって読まれて上手くなるのではないか? ついのべが文章表現最先端の形式とは限らないが、今をときめくブームにのることは決して損ではないだろう。それだけ読んでもらえる可能性があるのだから。作家志望者にとって、いいことづくめである。

いったんここで自分語りに戻るが、色々あって遅ればせながら28歳でネットにハマり2ちゃんねるの文学・創作文芸板なんかに出入りするうち10年ぶりに小説を書けるようになった。けれど長続きはせず、喘息やら何やら体を壊したりなんかしているうちに執筆意欲は減少するばかりで、このまま読み書きを忘れ老いていくのかもしれないとさえ思いこんでいた。

けれど2年ほど前に講談社BOX主催の「東浩紀ゼロアカ道場」なる企画に参戦した辺りから、また少しずつ意欲が出てきた。第一関門で敗退してしまったが、そこに集った面子には2ちゃんねる等オンラインで絡んだことはあっても、それまで面識のない人たちだった。心理学で言うところのファミリアストレンジャー(見慣れた他人)という関係だろうか。ある面においては知っていても、基本的には知らない人。それでも元から重なる部分があると、ちょっとしたきっかけで急速に仲良くなれたりするのだ。

実はそこで円城塔先生の作品を題材に小論文を書いたが、正直な話、作品の良さを理解できていなかったのである。面白いとは思いつつ語るなんてとてもできやしなかった。そもそもブログすら碌に更新できていなかったのだから、それらしくでっちあげる余裕さえもなかった。他の人は「読まずに書いてます。いや読まなくても書けます」なんて言葉で勝ちぬいたりしていて、僕もどちらかといえばそういうキャラなのに変に迎合しようとして意味不明の内容になってしまった。

西尾維新佐藤友哉を手掛けたことで知られる敏腕編集者・太田克史氏によって作られた講談社BOXは、道場や喫茶店運営を通じて今をときめく批評家や小説家と身近に触れあえる空間を用意してくれた。ファンにとっては願ってもない至福の場であったにせよ、作家志望者にとっては残酷な状況でもあった。

何者でもない自分とプロの間に聳える壁の高さに気付かされることも多く。道場で将来を見込まれた人たちと多少の繋がりを持っていただけに疎外感は大きかった。状況を打破すべく研鑽に励みたいと考えつつも結局は怠惰な日々を送っていた。それがツイッターとの邂逅により矯正され始めた。

半年余りで5千ツイート強だから平均百字としても40万字、4百字詰1千枚。うち小説は270篇で、こちらはタグを抜いても120字はあるので3万字として、4百字詰80枚である。1年前までは多くても週に1度しかブログを更新しなかったことを考えると、驚くべき変化だ。並行して批評絡みのイベントなどに顔を出し続けるうち、ゼロアカ道場破り参加者の松平耕一氏が責任編集する文芸空間社の『新文学』に評論めいた雑文を書かせて貰える機会まで出来た。

脱線が過ぎた感もあるので、ここでもう少し論文的な考察も加えてみよう。前号は「ハック」がキーワードになっていたようなので文字遊び的な連想から米文学の古典的名作として読み継がれているマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』に触れてみたい。

米文学とネットには親和力を感じてならない。それはネットが米軍のミルネットに由来するせいもあるだろう。そしてツイッターアメリカ生まれ。いまだ日本人ユーザは少ないが、アメリカのフロンティア・スピリットに見習うべきことは多いだろう。

ハリー・ポッターや春樹の世界的成功も英語圏での支持あってこそという側面も大きい。ラノベと純文学の接近も海外で成功するジャパニメーションからの影響と考えられなくもない。ついのべだっていつかは言葉の壁を超えて発展していくかもしれない。

またツイッターはアナログとデジタルの共鳴現象でもあるが、なぜ人は新たな技術を物語表現に利用したがるのか? 技術革新と物語創造は、種の繁栄と個の存続という相反する作用を持つ二つの動物的本能――エロスとタナトスに置換できる。

種の生き残りをかけパターンを増やし続ける物理的な遺伝子の交配と、個の存続をかけ魂の遺伝子を伝承する文化表現の交配。拮抗し合う神と悪魔が表裏一体であるように、人類の歴史を支配してきた陰と陽の原理。螺旋上に絡み合う両軸が揃ってこそ世界の羅針盤は磁力を得て未来への航路を見出せるのである。

それはアナログとデジタルの理想的な関係でもある。手書きや実写とCGが融合する漫画や映画の手法、官能小説とケータイ、あるいはエロゲーと声優の肉声。パルプフィクションカストリ雑誌におけるSFとポルノの混在。そしてエンタメと純文学。細部にこだわる描写と簡略された表現の絶妙なバランスが名文の土壌となる。

書籍は静的なメディアだが、ツイッター小説は動的なウェブ上のタイムラインを活字が流れていくことで作者と読者の間を行きつ戻りつしながら広がってきた。小説もウェブも既に新しいものではないが、弛まぬ生の躍動の大海に放流された稚魚が深海で進化を遂げるようにして、まだ見ぬ世界へ我々を誘ってくれるかもしれない。

字数の制限はソネット漢詩・俳句・短歌といった古典文学に見られた古い形式でもある。ヨーロッパのコントや古典落語から派生したショートショートに近い作品も多い。星新一小松左京筒井康隆都筑道夫が有名だが、長編のイメージが強い赤川次郎も得意としていたり、短さゆえに身近さを感じるせいなのかファンの多い分野でもある。ついのべに最も近いのは阿刀田高氏の『ブラック・ジョーク大全』辺りだろうか。

落語的にオチがつくショートショートやジョーク路線とは別に、川端康成の『掌の小説』など抒情を味わう掌編小説の系譜もあった。ゴシックホラーの古典的名作フランケンシュタインが深夜の怪談話から出来た逸話との共通点も気になる。

ナンセンスものには現代詩の趣を感じるし、ルーツを辿れば民話や説話にまで遡れることだろう。ルールや構造の明快さからすれば、ついのべは文学史上の原点回帰ともいえる。表面的なアナログ/デジタルの融合だけでなく、内在的にも古くて新しい温故知新の精神を宿しているのだ。

創作技法をレクチャーする著書を持つプロ作家が多く参加しているのも面白い。体感してみないことには分からない新しさ面白さがあるように思えてならない。初めて創作した時にも似た快感を再び感じた人も多いのではないか。実際に創作したことのない人でも敷居は低いし、書き慣れている人も新鮮な難しさを愉しめる。

新しいから素晴らしいのではなく、古いからいいのでもない。少年少女にとっては何もかもが新しく、老年世代には遺物と感じられるかもしれない。けれど古さと新しさの交差点という位置づけであれば世代や趣味の垣根は無意味だ。プロアマ問わずに競えあえて、なおかつダイレクトに好反応のみ得られるのもついのべの醍醐味である。

またディスカヴァー社主催の「ツイッター小説大賞」がユーザの意見を考慮し応募規定を変更した顛末が、つい最近ツイートし始めた批評家・東浩紀氏が提唱するネットを介した直接民主制「民主主義2.0」的だったことにも着目したい。

ケータイ小説もネット公開済みの作品を応募するシステムだったけれど、創作と呟きの境界線が曖昧だからこそ創作に至るまでの思考回路や、出版に際しての経緯までもが半透明化されることで、作者と読者の一体感が芽生え、それが書籍の売り上げにも繋がっていくサイクルが発生しやすい土壌なのではないか。この流れが政治さえも身近にしていく可能性は十分にある。

そろそろ紙面も尽きてきたが、どうにも支離滅裂で面目ない。ついのべを書くようになってからというもの不思議な程アイディアが出てくるようになったはいいが、そのかわり長い文章を書けなくなってしまったようである。

短文ではどうにか誤魔化し遂せた心算の文章力のなさがバレてしまったかなと怯えつつ、せっかくだから可能領域限界まで埋め尽くさんとの意気込みも空しく、建付けの悪い脳がお漏らしをして、誌面を汚す恥ずかしい紙魚を広げる結果に。別に呑んでるわけでも飲ってるわけでもないというのに。

なお釈明の余地があるとすれば、これは竟乃辺に棲む鬼に巣喰はれし脳髄の塵芥が、意識の闇夜を飛来する塵芥の如き物語の欠片となりて電脳世界に質量のない山を築き、また崩されて反射され髄を蝕みて報いしか。せめて塵芥のヤマが反転しマヤ暦の終焉を迎えるその時までは、竟乃辺の河原を行きつ戻りつ、書いては消して、また書いて書いて書いて。

(t)竟の棲処に伏して猶ほ失せぬ望郷の念・(w)忘れ形見は脳に刻まれし言葉なり・(n)啼いて空を割き時を歪めし八咫鴉に誘はれ・(o)幼き砌の想ひ出の地へ・(v)ヴヱヰルを脱いで貌を出したる・(e)得難き尼僧の語りつるは・(l)理解無用の竟乃辺譚 #twnovel(了)