萌えロティック・性くノフィリア〜アクトロイドは無料動画の夢をみるか?

・文芸空間社メルマガ『新大学01』収録(約12,000字)文芸空間社購買部

  序「ユビキタス・リテラチャー」補遺

『新文学02』掲載の小論文「ユビキタス・リテラチャー」では「ゼロ年代のネットサービス5選」を担当した。ゼロ年代を代表する世界規模の広がりを感じさせるサービスという観点から選出したため、至極ありきたりなラインナップと感じる向きもあったかもしれない。上限の縛りがあったことから苦心して絞り込んだ結果だが、重要と思われる各カテゴリ――それぞれ検索エンジン枠がグーグル、データベース枠がウィキペディア、BBS枠が2ちゃんねる、ブログ枠がはてなSNS枠がツイッターというセレクションであった。

このうちグーグル・ウィキペディアツイッターに関しては世界的上位のシェアを誇るユーザ数からして異論は少ないと思われるが、残りの2chはてなはあくまで日本国内のみの流行である。しかしながら2ch的な巨大掲示板群は他国に例がなく、近年アメリカでも似たような性質を持つ「4chan」なるサービスが注目を浴びていることから、世界的現象に匹敵すると考えた。一方はてなは、世界中でブログが流行る前からブログ的だったということもあって取り上げた。

なるたけ最新の潮流を意識しようと、批評誌としては近年稀にみる売上を誇る『思想地図』等で読み齧った流行の批評用語を取り入れたりはしてみたものの、肝心の思考回路そのものが最先端とは言い難い粗暴にしてジャンクな性質であったことは、慙愧に堪えないところである。何より、先行論との関連を示唆することでエビデンスを提示すべき作法を省略した怠慢に至っては、我ながら呆れるほどである。

なおかつ扱った素材は、前述の『思想地図』責任編集の一人でもあり、ラノベ・エロゲ・ネットといったオタク・カルチャーに関する鋭い切り口で批評の新境地を啓いた哲学者・東浩紀氏の愛弟子として知られる、濱野智史氏の『アーキテクチャの生態系』と丸被りであったことに、甚大なるプレッシャーを感じつつ、そこに触れなかった罪悪感も拭い切れない。

そもそも論文というとかしこまった印象があるので、いっそエッセイと捉えてもらえるとありがたいかもしれない。論文めいたものを書く時って参考文献を明示しないと説得力も薄れてしまうのだろうけれど、そもそも書くために調べるというより以前にどこかで見聞きしたことを思い出しながら書くことが殆どなので、どこの誰の言葉か忘れていることが多い。あるいはやる気が足りないだけもしらんが。努力は才能を凌駕するとか、継続は力なりとか、言わんとすることは分かるんだけど、どうしても努力も継続もままならない。そのくせツイッタードラクエには時間をかけてしまう。

鬱の人に「頑張れ」と言ってはいけないという話があるが、僕はそういう病を背負っているわけではないけれど「頑張れ」と言われようが言われまいが、どっちにしろ頑張れない。むしろ世の中の大勢の人が何故そうまで頑張れるのかが分からない。これも何らかの病なのかもしれない。どうしてもやらなきゃいけないことは、困ったことになったと思いつつどうにか頑張るけど、仕方なしにやってるもんだから絶対に中途半端になってしまう。理想とする完成形を一応は想像するものの、そこに到達するために必要な壁を乗り越える馬力がなくて、壁を回避したまま済ませてしまうのである。

閑話休題。初稿の感想として「ユーザ層の違うヤフオクミクシィ、最近上場まで果たしたクックパッド等に言及しなくていいのか」という声もあったが、世界的現象として特筆すべき特性を持っているとまでは考えられなかったため触れなかった。特例としてユーチューブやニコニコ動画はグーグルや2chの関連サイトだから話題に含めた。なお文中にて「ゲーム的」なる用語を使用したが、僕の考える「ゲーム性」は、ゼロ年代において思想畑で耕されてきた意図とはどうもジャンルが違う気がしている。現状うまく説明できないので、これもまた後ほど検証したい。

あるいは「文学とネットの接続詞たらん」との主題からして、ともすれば言語学周辺の範疇だったかもしれないとさえ思う。そうすると例えばチョムスキー千野栄一あたりをひきあいに出す必要があるだろう。2ch論も含むことから、ネトウヨ発言の傾向として散見される「甘え」にも言及せねばなるまい。

実はこれが言語学とも深く関わってくる。精神分析家・土居健郎の『「甘え」の構造』という本は日本人論の代表的名著として70年代から広く読まれて来たが、土台であるサピア=ウォーフの言語相対性仮説の信憑性を疑う研究者が多いことから、これが未だに一部のネット世論に根強く影響を及ぼしているのはいささか奇妙だ。

他にも見落とした項目が多くあるだろうと思われるが、今回はその補完案の第一歩、かつ裏ヴァージョン的な位置づけとして「ネットにおける性の問題」をクローズアップしてみたい。いかんせん準備不足もあって現時点での精緻な考察は望むべくもないが、まずは御挨拶ということで次の機会までには改善していきたい。

  1:萌えロティシズム 

古今東西「エロティシズム」に関する研究は山ほどあるが、ゼロ年代の日本においては「萌え」という要素抜きに語りえぬ印象がある。そこで「萌えロティシズム」という現象について考えてみたい。「萌え」の語源は植物が芽吹く様であり、それゆえ生殖のメタファーであることは疑いようもない。新緑が発する匂いを精液に似ていると感じたことはないだろうか。これは生命の息吹を感じさせるものであり、同時に性的なイメージが内包されているということである。もともと古語に由来する言葉ゆえ、日本神話との関連も当然ながらあるだろう。

古事記』や『日本書紀』では、神々の誕生シーンは神の身体や分泌物、あるいは装飾品や所持品の変化として描かれる。このような神の増え方はまるで単細胞生物アメーバのようだが、生命進化の初期段階における無性生殖の説明と考えれば、科学的に正しいと捉えることもできる。一応はそれぞれの神に性属性は設定されているものの、神を産む力は男女を問わず備わっており、かつまた生み出される神の属性は元の神とは全く違う性質を有しているのも面白い点だ。

なおかつこの特徴があるからこそ、この現象を今風に言い換えることも出来る。その言葉とは、ずばりシミュラークルである。これはフランスの思想家・ボードリヤールが提唱した概念で、様々な解釈があると思われるが、簡単に言うと「本物が失われ偽物だけが持て囃される状況」を示すものだ。よく見かける使用例としては、美術品や建造物、あるいは直筆原稿や生演奏、もしくは有名人といった、オリジナルに直に接することは滅多にできないが、映像や画像や印刷物を通したコピーは身近に溢れている環境を説明する場合である。

そしてこれは人と神の関係を認識するのにうってつけな符合でもある。宗教団体の教祖や熱心な信者はさておき、宗教に何らかの抵抗感を持つ多くの日本人にとって、神そのものと直に対面する機会は到底ありえない。しかし神の使いとされる神職僧職や神社仏閣を通じて、神の存在を想像することは出来る。なお仏教における信仰対象の要はあくまで仏であるが、多くの仏教系信仰集団において、仏の使いとして神々の存在が設定されている。これら宗教を通じて接する神の概念は教団ごとに異なるが、我々はもっと曖昧な印象で個別の神を心の中に描いているはずだ。だから神に思いを馳せる人間の数だけ、神のシミュラークルが存在することになる。 

この関係性は、オリジナル作品から気に入った部品だけを見つくろって大量生産される、同人作品にも通じる。東浩紀は『動物化するポストモダン』において、オタク文化における同人的想像力を、ポストモダン時代を象徴する消費モデルと位置付けた。かつては大きな物語を共有する共同幻想により普遍的価値を有していたはずの、オリジナルの権威が失墜した現代において、小さな物語だけをよすがとする動物化した消費者に重視されるのは、完全体のオリジナルではなく、その背景に隠されたキャラ設定や世界観の部品だけを抽出した、ユーザ好みにアレンジ可能なデータベースの補完でしかないのだというような説明がなされている。

このような状況下にある現代の日本社会においては、もはや神さえもが、宗教だけの専売特許ではいられなくなってしまったのではないか。それぞれが心中に思い描く不可侵にして唯一絶対の存在が神であるならば、それはたとえば好きな芸能人やキャラクターでもいいことになる。そういう観点からすれば漫画やアニメに登場するゆかりの地を「聖地」と称して巡礼したり、果てはお気に入りのキャラクターを祭り上げる「萌え神輿」といった、傍目には奇妙に思える偶像を担ぐ者がいても、何ら不思議ではないだろう。

それどころか神のように非人間的なる存在こそが人間の永続性を保証するのだと考えれば、オリジナルの存在しない架空のキャラクターや、実体がヴェールに隠された虚像としての芸能人は、元から宗教的イコンとしての機能を果たしてきたとさえ言えるかもしれない。それら架空も虚像も含めた「キャラクター」への愛情は、オリジナルとの適度な距離感あってこそ強まる傾向もあり、オリジナルと直に接することが出来ない替わりに、キャラクターに付随するグッズの購入やN次創作といった、フェティッシュな方法によって充足される。

心理学においてフェティシズムはエロティシズムの不可欠要素でもあり、ここで宗教と性欲は必然的に邂逅を果たす。宗教と性欲を横断する文化は、別にセックス教団を引き合いに出すまでもなく、ごく普遍的なものだといえよう。このような理由から「萌え」と「エロティシズム」は不可分の概念であるという意味を込めて「萌えロティシズム」という呼称を提唱したいと考えた。

  2:性くノフィリア

そしてまた「萌えロティシズム」はテクノロジーと不可分の関係にもある。雑誌・VHS・DVD・インターネットといったテクノロジーの普及はエロに牽引されてきた側面も大きい。いわゆるオタク的な萌え文化を快く思わない保守層は、得てしてアナログ嗜好だったりもする位だ。彼らのようにデジタル嫌いなテクノロジー恐怖症を示す言葉は「テクノフォビア」であるが、その対義語はどうやら「テクノフィリア」で、これはテクノロジー依存症とでも解釈できそうな言葉である。

ただし児童性愛者を「ペドフィリア」とも言うが「フィリア」は必ずしも病的な症状を指すわけではなく「嗜好」もしくは「友愛」と訳される場合もある。民主党政権の頭首たる鳩山由紀夫氏が「友愛総理」なんて呼ばれたりしている時節柄、ある種タイムリーな言葉かもしれない。

この友愛に性の問題が絡むとややこしい事態になりかねない。「男女間に友情は成立するか」なんて命題が昔から若者を悩ましてきた歴史もある。ともあれそんなニュアンスを持つ「テクノフィリア」に「セックス」と「性」を関連付けることで「性くノフィリア」と名付けてみた。これは「セクシャル・テクノロジー」=「性愛工学」あるいは「恋愛工学」ともいうべき観点から、デジタル社会における性の問題を考えてみたいとの狙いからである。

インターネットの高速インフラ=ブロードバンドが普及した現在、性くノフィリアの最先端は無料動画と大規模多人数参加型オンラインゲーム=MMOG(Massive Multiplayer Online Game)だろうか。ネット黎明期からエロ画像は取引されていたようだが、いつでもどこでも無料でネットにアクセスできる環境が整備されつつあるユビキタスな情報化社会において、無料動画ほど手軽に享受できる「おかず」は他にないだろう。広告費で収益が賄われているケースもあるだろうが、その殆どは商品サンプルである。あるいは違法コピーを配布している場合もあると思われるが、その見分け方は容易ではない。

無料動画と一口に言っても、生身の男女が組んず解れつするような、いわゆるアダルトビデオばかりではなく、女性単体のイメージビデオや、萌え絵のエロアニメとではユーザ傾向が異なる。これがエロゲともなるとAVとは全く嗜好が違ってくる。ただしMOOGの性くノフィリア的なニーズは今のところまだ少ないようだ。

英語圏ユーザが多い『セカンドライフ』は、ゲームではなく3D空間を自作グラフィックでアレンジできる機能を持つコミュニケーションツールだが、プレイヤーの分身キャラにセクシャルなポーズをとらせたりすることも出来るため、様々や体位のヴァリエーションを付加させて事に及ぶ遊び方も可能だ。商売も出来るので、セカンドライフ内で風俗店を営業している人すらいるそうである。ただし美意識の違いからか日本人ユーザは少ない。

その替わり日本人向けの「萌え」に特化した『アイスペース』なる3Dコミュニケーションツールも登場しているが、こちらは自作グラフィックを追加できる機能は搭載されていない。いつかはセカンドライフのようになっていく可能性もあるが、本家のユーザが頭打ちということもあって、まだ動向は定かではない。このように形態はそれぞれ異なるものの、いずれも2次元における性くノフィリアの事例であることに変わりはない。

では3次元における性くノフィリアにはどんなものがあるかというと、それは2次元キャラクターもしくは3次元アイドルなどを模したフィギュアやガレージキット、ダッチワイフの発展形としてのリアルドールなど、精緻な技術の粋が惜しげもなく投入かつ消費されている。こちらはネットと違って有償が基本のため、余程のマニアしか手を出せないかもしれない。けれどオタク文化の普遍化に後押しされて、巨大産業に発展している傾向はある。

またこれらの技術はエロ産業を離れたロボット開発の分野にも応用され、ココロ社製の人間そっくりの外観を持つガイド用ロボット「アクトロイド」が注目を集め始めている。彼女は展示会のガイドに必要最低限の言動しか出来ないが、更にその発展形として独立行政法人産業技術総合研究所が開発したのが、自力歩行やダンスまで可能なヒューマノイドロボット(別名・サイバネティックヒューマン)「HRP-4C」である。アクトロイドキャンペーンガールをイメージした今風の派手な顔立ちをしているが、「HRP-4C」は日本人女性の平均顔を採用したため、よりリアル感が増していると感じる人も多いかもしれない。こちらも外観にはアクトロイド同様ココロ社の技術が使われている。

これらはあくまで科学実験のために作られたものだが、妙齢な年頃の女性を思わせる造形への拘りには、そこはかとなく性くノフィリアの方向性が感じ取れる。なおかつHRP―4Cに至っては全関節可動型の本格的なロボットでありながら、身長158センチ、体重43キロ(しかもバッテリー込み)と、ある意味「実用的」な狙いを見据えているようにさえ思える。実際にセックス用ロボットの開発に着手し始めている国もあるそうだ。

ここで「性くノフィリア」を支える原動力がどこからきているのかについても考察したいと思う。70年代にサブカル方面を軸に持て囃された思想家の岸田秀は『ものぐさ精神分析』において、精神分析家ジグムント・フロイトの精読から「セックス・マニアとしての人類」に着眼した。岸田は人類の本能は壊れていて、他の動物と違って本能だけで生きていくことが出来ないので、独り立ちできるまで長い年月を要するようになったのではないかと推測する。そして種を存続させるための本能の代替として、常識や法律といった大きな物語を共有させる共同幻想が発生したのだろうと。

同様の考察は吉本隆明の『共同幻想論』などにもあり、その関連度については疎いのだが、この前提に依拠すると人類の性欲が生殖を目的としているのも、本能というより思い込みに近いことになる。フロイト理論の生成過程に立ち還って鑑みるに、カントのア・プリオリヘーゲルの世界精神といった、哲学的概念から転化された面もあるだろう。その思想的系譜は、プラトンアリストテレスといったギリシャ哲学にまで遡る。そもそも心理学にはギリシャ神話にヒントを得た用語も多く、神話と哲学の狭間から発生した学問と考えていいだろう。

しかし前章で挙げた東浩紀の言う通り現代において大きな物語が失墜しているのだとすれば、原始の共同体にも似た本来あるべき人類の性文化が顔を出すことになる。それは歴史家ヨハン・ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で指摘した「遊ぶ動物」としての人類の、娯楽の一環としての性のあり方である。

ここでまた東浩紀の言葉「ゲーム的想像力」を借りてみよう。2009年に最も売れたゲームソフト『ドラゴンクエスト?』に登場するキャバ嬢さながらのギャル系キャラ・サンディは、淑やかな女性を好むアキバ系ファンへの裏切り行為だとして賛否両論を呼んだ。表向きはユーザの間口を広げる目的で投入したと説明されたが、一説によれば製作者がキャバクラ好きだからとも言われている。

実はドラクエの制作会社レベル5は携帯電話用のキャバ嬢育成ゲームも作っているので、あながち噂だけではないのかもしれない。これが何故ゲーム的想像力と関わるかというと、キャバクラが恋愛ゲームを愉しむ場所だからである。そこで培われた恋愛イニシアティブの椅子取りゲームが、天才クリエイターの閃きに与えた影響は決して少なくなかったことだろう。ゲーム的想像力はやはり別種のゲームから啓示を受けて再生産される無限ループの中でこそ永遠の命を得るのではないか。

  3:萌えロティック・性くノフィリア

前章の繰り返しになるが、最先端のテクノロジーを駆使した萌エロ、あるいは性クノ表現は、オフラインの世界にも存在する。たとえばそれはオリエンタル工業のリアルドールだったりもするが、より人間に近い集大成は「HRP-4C」だろう。オンラインでは無修正動画の蔓延が社会問題になっている。これは国境の壁を超えたネットワークの闇市ともいうべき部分だけれど、ことさら無修正を有り難がるのは日本ならではの文化だ。

アメリカやヨーロッパは元より無修正が当たり前で、日本以外のアジア諸国や中東においては修正どころか排除されてしまう。モザイクさえあればいいという本音と建前。それが無修正の価値を跳ね上げる。3D内2Dの集大成がアクトロイドで、2D内3Dの集大成がセカンドライフ・アイスペース・動画配信と考えてもいいだろう。

動画つながりでテレビについても触れてみると、毛穴まで見えすぎてしまうと称される地上波デジタル放送の鮮明画像と、児ポ改正の関連性が実は気になっている。画像であれば修正でごまかせるが、ハイビジョン映像では難しい。メイク技術も発達しているとはいえ、大変な問題だ。最近ハヤりのアニメイクというものもあるが、考えてみたらファンデーションを塗り込めて毛穴の消えた肌は、2次元キャラの肌と変わらないものだったりする。

そうすると結局のところ2次元コンプレックスなんてものは、別に不自然ではないのかもしれない。特に顕著な例として、顔を立体的に見せるためにとあらかじめ陰影を付けるシェードなる化粧技法は、実際の光源と関係なく影が続くので、目の前にいても現実の人間でないようで、遠近感が失われたかのような錯覚さえ感じさせる。こうなると現実と空想の境界線すら怪しくなってくる。

目指す地点はアニメキャラ、もしくはサイボーグだろうか。そうまでしてロリコン嗜好のツルペタに迎合したがるのは、ベイビーフェイスという言葉もあるように、若さを保つことによっていつまでも愛されたい願望だろうか。だが男性が若い女性を好むのは生殖能力を考慮してのことだとすると、その限りにおいては大きな物語の崩壊に伴う共同幻想の衰えが席巻する現代にあっても、種の存続を望む本能は高確率で健在だということにもなる。しかしこれはあくまで現実の女性に興味があるケースに限られる。最近の若者の性的嗜好の矛先は、3次元のリアル女性ではなく2次元の架空キャラクターに向けられることが少なくない。この段に至っては、やはり現代人は本能と乖離した方向へ進んでいる。

架空キャラとの疑似恋愛を目的としたシミュレーションゲームラブプラス』や、一時的にカップル感覚を得られる性風俗は、可能世界が同時進行するシミュラークルである。2次元キャラは意志を持たないし、風俗嬢は時間限り演じているだけだ。それでもなお魅了される者が後を絶たないのは、やはりそこで満たされる性愛欲求は生殖を放棄したものだからである。

これは動物行動学者リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』にて掲げた「次世代に遺伝子を運ぶための容器」として人生を終えたくはないという、個の反逆でもあるだろう。種の存続のため個体数を一定に保つ類の力学が自然に作用しているとしたら、少子化もその流れかもしれない。そのお膳立てとしてリアルな生殖を拒否するオタク層が登場したはいいが、生命を作り出す本能が完全になくなったわけではないので、代替物として永遠に愛される対象としてのフィギュアやアイドルに熱狂したりするのだろう。この現象は永遠に愛してくれるピグマリオンやゴーレムといったギリシャ神話における逸話とも呼応する。

他にも生殖本能と懸け離れた性のあり方を追求する例として、駕籠真太郎蜈蚣Melibeの成人向けエロ漫画を紹介したい。彼らの作品にはフェチシストの主人に対する最大級の愛情表現として、自らの人体を人形さながらにまで改造するエピソードが出てくる。これは宗教的献身にも似たところがある。宗教の多くにおいても、自らの保身を顧みず法に殉ずる事を尊ぶ、マゾヒスティックな気質は容易に見つけられる。同時にそれらの教えを説く側はサディスティックな性質も持つため、自ずと宗教者はサドマゾ双方の属性を行き来することとなる。それはやはりフェティシズムと重なり、ここでもまた性欲と宗教が当然の如く結合する。

同じくエロ漫画家の砂が好む概念として、サイボーグ・フェミニズムなる概念がある。これは科学史の観点からフェミニズムを考察する学者ダナ・ハラウェイが提唱したもので、道具や機械と共生する現代人はサイボーグ化しており、もはやそこにジェンダーは存在しないという主張である。本来フェミニズムには男性視点のレディファーストなどのイメージがあるが、ことウーマンリブとなると女性原理主義レズビアン文化に接近せざるを得ない。

サイボーグ・フェミニズムは両者の溝を埋めるファクターと思われるが、もともと生殖と無縁のゲイカルチャーにおいて、ジェンダー論は無用の長物である。むしろ本能に根差した生き方に囚われない故に、あらかじめサイボーグに等しい存在だったとも位置づけられる。それでもなお若さを保つ願望が収まらないとなれば、それは種の存続というより、個体そのものの存続を願う不老不死への憧れかもしれない。

さてここで彼らが求める「性別も年齢もなく、死ぬことすらない存在」とは何者であるか考えてみると、それは確かにサイボーグに違いないが、科学の力で作りだされるサイボーグは、あくまで人工の産物である。人の手によらない永遠の生命といえば、それは神の領域である。そこは人智の及ばぬ聖域だ。研究を重ね知れば知るほど侵犯することになるが、全て知り尽くすことはありえないから、聖域は必ず残る。それ即ち「絶対領域」である。

絶対領域オタク文化における萌え用語で、ミニスカートと二―ソックスから僅かに垣間見える、太腿の露出箇所を指す。名付けられた経緯が分からないため推測の域を出ないが、かようなファッションの場合、太腿は女性器に最も近い肌が露呈される唯一の部位であり、神聖なる母胎の出入り口は、熾烈な恋愛戦線を生き延びた唯一人の勇者にしか触れられない、不可侵の秘境にして至宝であるといったような連想から命名されたのではなかろうか。

アニメファンのみならず多くの若者を虜にしたSFアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』においても、母性の存在は神格化された形で物語の形成にアクセントを加えているが、考えようによってはかの名作のタイトルの一部をもじれば「神聖なる女性器」という暗喩が見て取れるではないか。

後の部分は「福音」を意味する「エヴァンジェル」から来ているので「神聖なる女性器の福音」と考えることも可能だ。何も言葉遊びをしているつもりではない。これは「ユビキタス・リテラチャー」とも重なるが、言霊の力を借りて事象を解明しようという試みなのである。言葉それ自体が発する霊験であるから、作者の意思が介入しているかどうかも関係がない。言葉が発話者の意図を離れて変化していく現象については、ソシュール言語学者による具体的な検証結果もある。

アイドルの訃報を受けて、即オナニーのネタにしたという猛者の告白が、不思議と腑に落ちたことがある。アイドルが死んで写真や映像だけが残るってことは、2次元化もしくは架空化するのと同義だ。フィクション世界の住人なら浮気もしない。熱狂的ファンの犯行動機もそこに起因するのではないか。あるいはそれは解散したバンドのアルバムを聴いたり、作家の絶筆小説を読む行為にも近い。死姦にも似た背徳的な悦楽を感じさせるものだ。

性充足が後ろめたさを伴うのは、人間の根本原理としてのエロスとタナトスが表裏一体の関係だからでもある。ありていに直訳すると「性欲と破壊欲」であるが「創造力と破壊欲」とした方が対比の形として綺麗だ。それは「生と死」の関係でもある。生と死が不可分なのは当然である。生きていなければ死ぬことはできないし、生と死を同時に体験することは基本的には不可能である。

しかしここでついに、エロス論の大本命ジョルジュ・バタイユが召喚される。彼の名著はそのままズバリ『エロティシズム』と直球のタイトルが冠されているが、そこで彼が教えてくれたのは、性的快感を意味する「オルガズム」とはフランス語で「小さな死」というダブルミーニングであること。人間の個体に囚われた一回限りの命は替えが利かないものであるにも関わらず、先の出来事を予知できない時間の流れの中で、常に危険にさらされている。いっそ永遠の存在になれたら何も怖れることはないが、個体から解放され人でなくなることは、それ即ち自らの死である。同時にそこはあらゆる災厄から逃れられる安息の地でもある。その安心感こそがオルガズムの快感を呼ぶのではないか。

そしてまた人ならざる人に似た者とは、思い出の中にのみ生きる死者や、想像の中だけに登場する神や悪魔だけではなく、人の作りし人形や2次元キャラさえも該当する。そこに生命が宿っていようがいまいが、愛でる者の心を投影する限りにおいて、それらは確かに自分の存在理由を証明するイコンである。宇宙から飛来したラムちゃんや、世界の根源として君臨する涼宮ハルヒ。神聖なる女神に萌えながらも、決して果たし得ぬ性の捌け口を持て余す我々は、オリジナルの神あるいはキャラの付随物としてのシミュラークルである、紛い物の神やキャラのグッズを所有し、あるいは凌辱することで、この崇高なる世界の本質と初めて一体化するのだ。

人は誰しも、成長と共に奪われてきた全能感を取り戻す手段として、他者と一体化しようとする欲望からは逃れられない。具体的な手法は人それぞれで、自己に他者を吸収してしまうか、あるいは自己を他者に投げ出すか。いずれにせよ宇宙の全体性と連なる欲求が背後に隠されている。現実を模倣するフィクションと、フィクショナルな現実の区別が曖昧になりつつある不確かな毎日に脅かされる存在論的危機は、死と紙一重のエクスタシー=全体性との融合=宇宙意志との合一といったサイクルの無限ループによって危うく自我を繋ぎとめている。

水上に浮いては潰える気泡のような無限の可能性を代償として、もう二度と来ないこの瞬間に、互いにかけがえのない有限の体を抱きしめ合う。その聖なる秘め事こそが、この一度限りの人生に永遠の命を与える。その営みによって我々の意識は、母なる宇宙をさすらう流転の海に溶け込み、終わりのない永劫回帰に至る。

こうしている間にもきっとまた地球上のどこかで誰かが下らないことで罵り合い、無益な諍いを懲りもせず続けているのだろう。しかしだからこそ我々は無上の愛を持ってして世界と対峙していかなくてはならない。仮令どんなに摩擦が絶えない住みにくき人の世であろうとも、永遠に繰り返される摩擦とは即ち「萌えロティック・性くノフィリア」たる我々が物心ついた時から愛してやまない、あの反復運動のことでもあるのだから。(了)