『ユビキタス・リテラチャー ゼロ年代のネットサービス5選』

・グーグル/2ちゃんねるウィキペディアはてなツイッター

 序:イグゼンプション・マターズ

先ずは当該セレクションの偏向事由について弁明しておきたい。『新文学』のコンセプトを考慮して綴られた本稿は「ネットと文学の接続詞たらん」との着地点を想定している。字数の都合からモバイルやOS等ハード環境に依存するサービスは除外した。ならびに実店舗を有する通販金融系サイトやリア友中心のミクシィも、日常コミュの延長と判断し言及を避けた。なおかつ不特定多数との連携に特化したネットならではの特異性に着眼することで、いわばギーク的なマニア志向をクローズアップする結果となった。

 1:夜回りグーグル先生「神か悪魔か」

98年創業の検索エンジン・グーグルの会社概要には『世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにする』と冒頭にあり、99年開始の巨大掲示板群・2ちゃんねる(略称2ch)のキャッチフレーズは『「ハッキング」から「今晩のおかず」までを手広くカバーする』と記されており、いずれも「新世界の神たらん」といった『デスノート』ばりの野心を掲げている。同時に前者は「悪になるな」と自戒しつつも違法性の疑われるキャッシュを垂れ流し、後者は監督責任がないとして名誉棄損の訴えを無視する。ユーザ本位の自己責任に依存するウェブ2.0とは運営者の免罪符なのか。いかに毀誉褒貶あろうとも格段のアクセス数でネット社会に君臨し続けてきた影響力は決して無視できない。

玉石混合の2chで有益な情報を見つけることは容易ではないが、だからこそ至宝に出会う醍醐味もある。対してグーグルは表示順の高い上位サイトを見れば済むという意味では便利だが、恣意的にページランクを上げるSEO対策や、独自基準でサイトを検閲するグーグル八分の問題もある。フィルタ外しで回避もできるが、それはモザイク外しさながらの法外システムともいえる。しかしインターネットが国境を越えたネットワークである以上、避けられない面もある。倫理観の異なる文化圏のボーダレス化は多様な齟齬を産む。宗教史を紐解けば異文化の神とは悪魔の事であり、唯一絶対者としての神の下の平等と八百万の神に根差した自由の概念は、衝突せざるを得ない。しかし互いの視点から見れば神と悪魔は置換可能な表裏一体の存在ということであり、ボーダレスな倫理観の融合こそがコスモポリタンの目指すべきスタンスともいえよう。マルチカルチャリズムのカオスの果てにこそ、自由と平等のバランスが調和したユートピアがあるに違いない。

ストリートビューは個人情報保護の観点から非難を浴びているが、私道には立ち入っていない。公道沿いの建物が衆知に晒されるのは自明の理であり、セキュリティを考慮するなら私道に囲まれた住環境にシフトするしかない。グーグルが危険を呼び込んでいるのではなく、むしろ危険性を暴いてくれていると考えることもできる。アメリカに本拠地を置く企業でもあることからグーグルアースで米政府の重要施設は隠されているが、一方で犯罪予備軍の炙り出し目的で政府から求められた検索データの提供は拒否するなど、倫理的配慮も怠ってはいない。この経緯が単なる広告的パフォーマンスではないとすれば、CIAのハッキング技術はグーグルのデータを盗むには至っておらず、アルカイダの動きを察知できないのも嘘ではない可能性がある。フリーメイソンを隠れ蓑にしたカルト陰謀論的な連想からブッシュとビン・ラディンが繋がっているように思えてならない節もあるが、ともかくグーグルなりのモラルは確かにあるようだ。

グーグル贔屓のネットオタクが多く生息する2chでは、ネット初心者に対し「ググれカス」とか「グーグル先生に訊け」と、初歩的な質問は検索で自己解決するよう諌める場面を見かけることが良くある。先生という尊称には博識の意味はもとより、検索ランク上位の情報を無条件に信頼せよという、多数決主義の倫理的ニュアンスも内包されている。教師は倫理的権力として機能するがゆえ聖職者とも呼ばれるが、自由奔放な子供を社会的大人の型にはめる意味を持つ教育と、多数決や資本力に根差したアクセス本位のページランクは、環境管理という側面において酷似している。四六時中ロボットを巡回させては規定に反するページを締め出すグーグル先生は、児童の夜遊びを監視する夜回り先生のようでもある。子供のスタンス次第で教師は良き理解者にも宿敵にも姿を変える。さながら表裏一体の神と悪魔の如く。

 2:量は質を凌駕する「アングラ帝国2ch

ユーザ本位のウェブ2.0的サービスの成功は運に依存しているところもある。たとえば2chの売名を加速させたネオむぎ茶電車男といったコテハンの登場は、偶発的な産物に過ぎない。あるいは土壌を用意した時点で先見の明があったとも考えられるが、黙殺されて終了の可能性もあった。そうならなかったのは管理者権限を最小限に抑えることで最大限の自由度を優先させた懐の広さゆえだろうか。2chにおける程良く管理された箱庭の自由は、ゲーム的かつ外こもりできるネットカフェ的な空間ともいえる。モバイル文化とも相まって今や外と内の境界は曖昧だ。発信者と受信者、管理者と利用者の立場もベルリンの壁が崩壊した如くボーダレス化している。プレイヤーは自在にキャラを操っているつもりだが、実はプログラムの範囲内で操られている。こういった箱庭の自由で規律訓練と感じさせずに環境管理を徹底させるシステムを、無限ループやセカイ系を説明するジャーゴン「ゲーム的想像力」に倣い「ゲーム的アーキテクチャ」と呼びたい。

「量は質を凌駕する」というフランスの批評家ロラン・バルトの言葉は、2chやグーグルの価値をも包括する。無造作に転がる原石を磨くことで世相を容易に分析できる可能性もある。そういった恩恵も含めた科学の進歩により楽を出来るようになったはずなのに、何故いつまでも我々は忙しいままなのか。作業効率と共に競争は激化し単価も下がるせいか。けれども楽に稼げる時代において、ニートの増加は当然のなりゆきだともいえる。田中角栄元総理の『日本列島改造論』がここに来てやっと具体性を増してきたのだろうか。巨額の道路開発費や土地転がしの問題はあったが、いまやどこにいても通販が利用できる。

テレビやカタログでは為し得なかった検索サイトの恩恵もある。2ch検索を手掛ける未来検索ブラジルは、ひろゆきが役員の2ch関連企業でもある。ブラジルの技術は国家事業の基幹を担うNTTデータのシステムにも応用されており、潜在能力は計り知れない。昨年ひろゆきは管理人からアドバイザーに転身したが、見捨てたというより守るために距離を置いたのだろう。まるで維新後に身を引いた竜馬のように。

 3:ニュースの無限ループ「2chニュース速報」

ニュー速は特定条件を満たせば誰でもスレ立て可能だが、ニュー速プラスは運営の許可が必要。コテハンのプロフ「2ちゃんねるBe」と仮想通貨「モリタポ」を利用して記者に投げ銭もできるが、基本はボランティアだ。猛烈な勢いでスレを立て続ける「ぱぐ太」氏は06年に4万スレを樹立しニュースサイト「J-CAST」で取り上げられた。その際「J-CAST」ネタが多いためスパイ疑惑を持たれていたが無関係と明かされた。一日中スレ立てできる環境からニートか自由業者だろうが、採用基準に経済知識があるのでデイトレーダーかもしれない。

芸スポ速報には有名人記者という特殊なスレ立て人がいて、スレ立て行為自体がニュース化されることも。ゲーム制作会社ジャレコ社長の加藤タカ氏がゲームのアイディア募集スレを立てたことが話題になったり、ゲーマーアイドル杏野はるなの近影にP2Pソフト起動画面が写り込んでいたことから炎上したり。

有名無名を問わず誰もが発信者になれるネット社会においては、見る/見られる関係さえ置換可能となった。ある日突然有名人になった次の日には見向きもされなくなる筒井康隆の小説は、ウィニーウィルスによる個人情報漏洩事件を皮切りに今や現実となった。2chで秋葉原事件の加藤擁護の声が上ったのは特殊な場だからではなく、単なる社会の投影なのではないか。日本的な本音と建前の二重構造の本質が前景化されたのが匿名掲示板文化とも考えられる。

一方アメリカで流行する画像掲示板「4ちゃん」は、匿名投稿者が多い中コテハンが煽られ、コピペネタが横行しサイト特有の流行語が飛び交うなど、2chとの類似点が目立つ。ジャパニメーションやゲーム輸出の余波か、アメリカ由来の日本的解釈が逆輸入されている側面もあるのだろう。国境を超えた文化の融合には、識字率増加による文学の大衆化にも似た、格差なき情報化社会への展望が垣間見える。

 4:動画サイトに観る「ネットとゲームの親和性」

グーグルと2chの傘下にユーチューブやニコニコ動画があり、ユーストリームツイッターと通じている。活字から動画へ。静から動へ。ネットにおける動物化の流れともいえよう。他人の思考回路を追体験する活字コンテンツは能動的に内容を理解しないことには快感を得られない点において、言葉を操る人間ならではの娯楽である。対して画像や動画における視覚的コンテンツは、あまり考えることを必要とせず受動的に快楽を享受できる点において、動物的な欲求を充足させるものといえよう。ニコ動は前者と後者の融合によって、能動的に動画を発展させるアーキテクチャを提唱。一斉に言葉を同期させる弾幕攻撃といった、ユーチューブでは為し得ない遊び方が生まれた。製作者の意図を離れた楽しみ方が生まれる流れはテレビゲームを彷彿させる。

ゲームとネットの歴史を比べてみると同じように進化している。ゲームが映画のようになっていいのかという論争があった。枯れた技術の平行思考という概念。DVDプレイヤーとして利用できる「プレイステーション2」は世界を席巻し「ニンテンドーゲームキューブ」は苦戦を強いられた。けれども美麗グラフィック路線で長ったらしいムービーを見せつけられることに疲れた多くのユーザは、ゲーム本来の単純明快な面白さを求め、いつしか「ニンテンドーDS」は世界一売れて、任天堂は株価時価総額世界一の企業となった。デスクトップ機でも極限まで性能を追求した「プレイステーション3」や「Xbox」ではなく、インターフェイスとしては使い古されたリモコンを操作系に導入した「Wii」が独走している。『はじめてのWii』や『Wiiスポーツ』にはインベーダーやスーパーマリオといったゲーム黎明期に我々が体感した「操作するだけで楽しい」ゲーム本来の爽快感を再提案してくれた。

さてネットにおいてはどうか。「ニンテンドーDS」もブラウジングができるようなり、いまやPC・ケータイ・ゲーム機・音楽プレイヤーの垣根がなくなってきた。端末の多様化と高性能の追求は相容れないから、今後はゲーム的な方向性が問われるだろう。実際にゲームからITに鞍替えした企業も数多くあるし、ゲーマーだったベンチャー社長も少なくない。ならばネットこそゲーム的であるべきだし、ゲーム的に楽しめるサービスが生き残るともいえよう。

 5:広告メディアとしての「二次創作」

動画サイトの人気コンテンツとして既存アニメや音楽を再編集したMAD動画というものがある。いわば二次創作であるため著作権者が削除依頼を出すことも少なくない。しかし二次創作が本家のイメージを損ねるというのは勘違いである。何故ならイメージを覆すためには世界観を熟知している必要があり、予備知識なしに二次創作は成立しないからである。収益を損なうこともない。作品自体が広告として機能しているからだ。無断掲載される過去動画にしても同じだろう。より良い画質や音質を求めパッケージを所有したくなることもある。

いわば無料で広告的効果を得られることもあるのだから、それを規制することはせっかくのチャンスを一時の感情論で反故にしてしまいかねない。出版物とテレビの連動はマンガとアニメの関係など良くある。どっちが広告として機能するかは状況次第で、実際のお金の流れはケースバイケースだろう。いずれにせよ互いに助け合っていることは確かだ。広告文化がなければ既存メディアのビジネスモデルは成立しなくなってしまう。同様にネットやコミケだってそこに加わっていいはずだ。

そしてまたスポンサー依存のメディアは開かれた共有サービスでもある。ネットにおけるコンテンツの共有化は3次元的スペースを確保せざるを得ない蔵書などの所有物を管理する煩わしさから我々を解放させてくれた。いつかはあらゆるものが共有されるかもしれない。2次元キャラを私物化する俺嫁発言の裏には嫁の共有というロジックが隠されている。あるいは3次元でも分譲マンションにおける土地の所有権は共有されている。占有スペースこそ確保されているものの、土地そのものは共有スペースでしかないからだ。

しかるにあらゆるコンテンツが共有されるべきなのではないか。そもそもスポンサーの広告費は間接的に消費者が還元しているのだから。リサイクルやオークションにしても購入者への利権移動あってこそ合法なのである。法律とは過去の事象を元に未来を規定するフィクションである。そして現実がフィクションを凌駕することは少なくない。かくして法律は新たなるニーズに即してアップデートされていくべき宿命から逃れられない。

 6:ウィキペディア相互補完計画

01年にスタートしたオンライン百科事典ウィキペディア。誰にでも編集可能なだけに信頼性を疑ってかかるべきなのは当然だが、それは既存メディアにしても同様だろう。著作の多い文筆家が放置される一方で著作のない新人のページが充実するなど、現実の知名度と記事分量のバランスが取れていないネットならではの偏向もある。注目度の高い項目ほど編集制限がかかりやすく、ニッチなワードはマニアの執念だけで成立してしまうからだろう。

つい最近「孤独な学生はトイレでランチを済ます」という2chネタから派生した「便所飯」の項目が削除されたが、それを元に取材されたと思しき朝日新聞の記事への捏造疑惑が呈された。ヤラセが多いとされる朝日は「アサヒる」などと揶揄されることも少なくないが、今回の騒動は産経系列のニュースサイト「ZAKZAK」の記事が発端であり、ライバル企業という関係性を考慮せずにジャッジすべきではないだろう。実際に上記エピソードを持つ著名人が実在することから、水面下に同様の体験を持つ人がいても不思議ではない。

斯様なケースも含め木を見て森を見ない視野狭窄は危険だ。高速道路を走るドライバーが遠方にまで注意を払う必要があるように、広大な情報の洪水の中でサバイブするためには出来る限り多くの選択肢を用意する必要があるだろう。「否定」の冠詞を伴うパロディサイト・アンサイクロペディアも、単なるガス抜きネタとして消費するだけでなく、本家の排除基準に対峙する批評空間として考慮する類のリテラシーが問われてもいい。自治厨が少なく自由度の高い「はてなキーワード」が補完している節もあり、均衡を保持するためには両翼のバランス感覚が重要だ。あらゆるメディアは相互に影響し合うことで洗練される。

 7:キーワードの森の不可視な妖精「となりのはてな

「仮想現実」とは「ヴァーチャル」の誤訳である。本来は「本質」ともいうべき言葉。それがなぜ転化されたかというと、本質的感覚には現実感がないからだ。我々が暮らすこの現実こそが唯一のリアルであるという確証は、曖昧な記憶や矮小な経験に基づく錯覚でしかない。だからこそ我々は簡単なマジックのトリックを見抜けなかったりするのだ。そしてヴァーチャルスペースは仮想ではなく本質的に不可視なる世界の裏側を暴く。

01年に人力検索サイトとして誕生した「はてな」による「はてなキーワード」はユーザ投稿によるオリジナル百科事典で、後のウィキペディア日本上陸までは大変な人気を博していた。キーワードへの自動リンク機能を有した日記サービスはてなダイアリ」もブログの先駆け的な高機能が支持された。そこで頻出キーワードの類似性から算出される「おとなり日記」は、サイバースペースの意味を知る上で重要な機能である。3次元空間の「おとなり」とは物理的な距離を指すが、2次元空間における「おとなり」は精神的な「心の距離」のことである。すなわちインターネットとは、この世のもうひとつの本質を照らし出す鏡面世界に他ならない。それは偽物ではなく、まぎれもなく本物の投影なのだ。文学もまた社会を映す鏡と称されることがよくある。思想的なフィルタによって恣意的に歪められた鏡もあるが、表層的には変わっているようで本質的には変わっていない部分にこそ、人間の人間たる秘密がある。人間を描くとはそういうことではないか。

ウェブの未来を規定する重要キーワードはオープンソースクラウドコンピューティングとされている。一極集中型のがんじがらめに世界を構築するのではなく、編集可能なオープン領域をユーザに託すことで成長を期待できるという発想だ。ユーザ自治を重んじる2chは、その走りだろう。自治といえば多人数オンラインゲームにおいても重要な要素だが『ウルティマ・オンライン』も自由度の高さにより成功を収めた。一方で『ときめきメモリアルONLINE』のように規制の厳しさから失敗に終わったケースもある。いかに開かれたサービスといっても緻密に計算されたコア部分とのバランス感覚が問われる。それは美学と言い換えることもできるだろう。プログラム設計図を意味するコンピュータ用語アーキテクチャは建築用語から転化されたが、そもそも建築や工業デザインにおいても、見栄えと使い勝手を両立させるのは至難の業。プロの美意識とクライアントの無茶な要求が衝突することだって日常茶飯事だ。優れたアーキテクチャは妥協の上にこそ完成する。

 破:ツイッター×スピード×シンクロ=?

06年に現れたツイッターは140字以内の「つぶやき」をタイムラインと呼ばれる時系列順に一覧表示するミニブログである。チャット・BBS・ブログ・SNSの要素がユルく絡み合う。未承認リンクができるが許可制や拒否も可能。絶妙な自由度も流行の一因だろう。

動画用語でもあるタイムラインを核になすツイッターは、やはり動画的な傾向を持つ。フォロー数が増えるとタイムラインの動きが活発になりスピード感が出てくる。最初はついていけないが慣れるに従って気にならなくなる。かくして更なる情報量を求めフォローを追加し続けることとなる。自ら負荷をかけ筋トレ効果を増強させるアスリート的な展開である。そこで培われる情報選別の動体視力は、ネットリテラシーのみならず現実における危機的状況に直面した際にも抜群の速断力として成果を発揮するに違いない。

本能に基づき即物的に行動する動物は時間=歴史の概念がなく、過去への後悔や未来への展望といった感情もない。最低限の欲求が満たされている限りにおいて常に恍惚としているらしい。時間の概念を有効活用するツイッター人間性復権を促すエポック的ツールなのかもしれない。複雑怪奇な人間模様が織り成すドラマツルギーは、偶然の運命的現象と必然の劇的演出のコラボから奇跡的シンクロを生み出す。シンクロ率の暴走の果てに現出するゲシュタルト的複合体。それはまさに集合知の真理に他ならない。

 Q:新世紀「TT革命」

19世紀と20世紀の架橋は「言文一致運動」であり、21世紀へのクッションが「IT革命」だったとすれば、100年前の歴史に学ぶことで見えてくるものがありそうだ。ノーベル賞作家・大江健三郎によれば、昨年鬼籍入りされた批評家・加藤周一は、漱石の指示によって書かれたとされる啄木の『時代閉塞の現状』を重視していたそうだ。そこで説かれているのは「自然主義も浪漫主義も時代遅れで、文学は社会批評的たるべし」とする、いわばプロレタリア文学的な主張である。『蟹工船』がリバイバルヒットする現在にあっても古びない感性だ。ならば社会批評的なネット言説として、100年後の予想をしてみるのも一興かもしれない。

22世紀ゼロ年代のブームは「トランスポート・テクノロジー=TT革命」だろう。SFめいた発想とはいえ、物流のインフラはライフラインという形で身近なものだ。物質のガス化は既に成功している。物質を構成する動的平衡の問題さえクリアできれば、そう遠くない未来に実現してもおかしくないだろう。動的平衡とは生物学者福岡伸一の造語で、ミクロの細胞レベルでは日夜入れ替わっている個体が、マクロの全身そのものはあくまで同一性を保ち続けている生命システムを指す。これは生命のみならず共同体やメディアの構造を説明する概念として拡大解釈することもできそうだ。ネットや電子マネーによる決済の効率化の流れで、物質転送技術の普及により輸送や移動までもが簡略化されるだろう。

デスノート』における善と悪の天才の攻防はハッカー対クラッカーの闘いに似ている。デスノート即ち万能ノートPCみたいなものか。ライフハックとは楽をする技術すなわち効率化だ。それは大幅な人員削減を齎すが、多くの仕事が自動化されても監視者は必要だ。誰もが現場を離れ管理職になる総出世時代。悪の権化ライトと対峙するもう一人の天才少年エルの正体が別人に摩り替ってなお依然変わらぬ善のイコンとして機能したように、時勢を反映したニュータイプのコモンセンスが芽生えることだろう。

 A:ユビキタス・リテラチャー

現代人のご多分に漏れず筆者もまたネット依存の自覚を持っているが、紙媒体への執着も少なくない。何より本稿の発表も紙媒体である。最大の差異はアップデートの可否だろうか。そこに一回性のアウラが成立する。修正が困難だからこそ責任も重く、より慎重にならざるを得ない。だからこそ我々はアナログとデジタルの中庸をこそ良しとすべきではないか。クールメディアが数学的に排除してしまうホットな領域にこそ、人間の尊厳が隠されているやもしれず。

グーテンベルクの印刷技術によって一回性のアウラは損なわれたかもしれない。だが言葉の発明それ自体が既にして事象の複製を繰り返す永久機関であり、しかもそれが世界の根本原理である限りにおいて流れを止めることは不可能だ。人間は何でものを考えるか。物質面では脳かもしれないが、精神面においては文字を使って思考する。プログラムだって言語だし、数字も文字に他ならない。音楽や絵画も表音文字象形文字として組み込まれている。そもそも遺伝子や元素の配列からして言語体系に翻訳可能な性質を備えている。世界は文字で満たされているのだ。

情報や媒体を効果的に活用できる能力をリテラシーと呼ぶが、本来は読み書き能力のことであり、文学を指すリテラチャーと姉妹のような言葉でもある。このことから鑑みるに情報処理能力すなわち文学的思考と考えてもいいのではないか。聖書には「初めに言葉ありき」と書かれている。神とはすなわち言葉のことであり、聖書における「汎神論」を表す言葉「ユビキタス・コンピューティング」は、全てが文学と連なる意味合いを込めて「ユビキタス・リテラチャー」と変換できるはずだ。

創造神を文字の発明者とする発想はエジプト神トトやギリシャ神ヘルメスなどにも共通する。ゼロはブッダの故郷でもあるインドで発見された。かつてシルクロードを経てインドから仏教を授かった日本が、キリスト教を国教となすアメリカ属国としてゼロ年代を終えようとしている。人種も国境も言語の壁をも超えた千年王国を樹立すべく新世界の桃源郷を求め、ネットの海原に重舵をとる新航海時代のフロンティアは、今まさに始まったばかりだ。

※批評誌『新文学02 ゼロ年代の六十八選――二十一世紀文学史へ』寄稿コラムと同じです。

松平耕一編(主催者ブログ:文芸空間
寄稿者:辺見九郎,秋田紀亜,村上哲也,工藤伸一,塚田憲史,
negative-naive,sebastianus,esehara,古澤克大,中川康雄,
陸条,谷口哲郎,渡邊利道,谷口一平,白石昇,章,勺禰子,考え中,SAA
価格 :¥700
単行本:A5版、180ページ
出版社:文芸空間社
発売日:2009/08/16
ネット通販:文芸空間社購買部 
店舗販売:新宿・模索舎ジュンク堂書店・新宿店/中野ブロードウェイビル3F「タコシェ