ゼロアカ道場 第五回関門 公開プレゼン

口頭諮問のことと、その他いろいろ。プレゼンの感想については後ほど公開予定。

坂上さんの「ワーキングプアを書けば獲れる芥川賞なんて」発言。芥川賞も売れないといけないわけで。選考委員も同じことを言っているけれど。いわく「病人と無職の自分語りには辟易している」と。しかしながら明治以降の文学作品はそういう人々によって書かれ読まれていた部分も少なくない。何より明治期より高等遊民は多く、戦後に生き残った作家たちには戦争を免れた病人がいた。芥川は自らをブルジョア作家としつつもプロレタリア文学に期待していると書いていた。そしてプロレタリアのふりをしたブルジョア文学や、ブルジョアのようでいてプロレタリア文学というケースもあると。言われてみれば『羅生門』などはそういうものかもしれない。豪華絢爛な語彙力を駆使しているからブルジョア文学とは限らない。主題がどこにあるか。

村上隆さんによる質問「芸術の定義とは?」。明確な答えはなかった。トルストイが『藝術とは何か』で「将来の藝術家は専業ではなく普通の生活をしながらいいものを作るようになるだろう」と書いていたことを思い出した。現実のところ、そういう人もいるにはいるけれど、あえてそうしているというより専業になれないからだったりする。トルストイが言いたかったのは、未来の人間社会では食うために苦労することはなくなるだろう、という予測もあったのだろう。それは後の共産主義国ソヴィエト連邦の成立も視野に入れての想像だったのかもしれない。

現在の日本でロシア文学といえば何よりもまずドストエフスキーだろうか。東さんはソルジェニーツィン論でデビューしているのだけれど、ドスト氏をフェイヴァリットに挙げてもいる。トルストイの評価がどうなっているのかは分からない。しかし前述のトルストイの予言は、ある意味当たっている節がある。村上裕一さんが言及した「やる夫」などのキャラクターを文字を使って作り出す2ちゃんねるのAA職人。AAキャラクターで最も有名なのはモナーだろうか。それらキャラクターの殆どは作者不明のまま、まるで都市伝説かのように広まる。しかし作者に報酬がもたされることはない。匿名文化は廣田氏の言うように責任の所在を不明瞭なものにしただけでなく、それと同時に彼らの権利をも放棄させた。インターネットの父とも呼ばれるバーナーズ・リーは、著作権を放棄することこそが産業の発展につながると信じた。その精神は今なお受け継がれていて、コピペ文化の基礎となっている。

結果的に東さんの前評判どおりになった。投票とも一致した。だからといって第四回関門でも同じだとはいえない。というのも三つ巴の三位争いを勝ち抜いた『ちょれえと・てろりすと』が二人とも落ちたからだ。これなら別に『腐女子』が二人残っても良かったのに。あくまでたとえ話だけれど、そうなっていた場合に結果がどうなったかは分からない。前評判では上位だったはずの峰尾さんが選ばれなかったのだから、どんな結末もありえたことだろう。とはいえ投票結果とも同じだったのだから、今回の結果に関して特に問題があるとはいえないだろう。女性陣のマシントラブルは可哀想だったけれど、体調不良の坂上さんは堂々としていたわけで。

ところで藤田さんが『GEISAI#12』で哲学板コテハン「ぴかぁ」さんの名前を用いてパロったChim↑Pom(チンポム)。彼らが広島上空に飛行機雲で描いてみせた「ピカ!」という文字が、格式ばった倫理の狭間に疑問符の爆弾を投下する類の、ブラックジョークによる社会への異化作用を狙った前衛芸術なのだとして、それを僕流に倣うとどうなるか。たとえば今回の結果は投票との関係もあって文句なしといいたいところだけれど、準備段階でどんなかけひきがあったか分からない部分もある。2ちゃんねるで「枕営業を断れば女子全員落選もありうる」なんて軽口を叩くものもいたが、本当にそうなった。別に枕営業の必要があったなんて証拠があるわけではないけれど、実際に女性陣全員敗退となれば、そうとられても仕方ない。

確かに通過者のプレゼンとトークはすばらしかった。けれども事前に彼らだけ打ち合わせの場を設けることだってできたはずだ。贔屓の原因は「枕営業」という仮説を立てたっていいじゃないか。選考委員が男性ばかりだからといって、女性だけが性的興味の対象とは限らない。そもそも東さんなんて「ショタは抜ける」と書いていたくらいだし、太田さんはいい歳して独身貴族。ゲイ大出身の村上隆さんだってそれくらいとっくに経験済みでもおかしくない。10億の値が付いた作品自体、その手のカルチャーと無縁ではなかった。筒井さんは『大いなる助走』でゲイの大作家に掘られるエピソードを描いていたから、これだって実話の可能性がなくもない。

念のため繰り返しますが、これはあくまでブラックジョークであって、本気でそんなことを思っているわけではないですよ。世の中には冗談の通じないアスペルガー症候群なんてものもあるので、気をつけないといけないことなんですが。さらにジョークを続けますと、腐女子の間でよく言われるカップリング。村上隆と峯尾さんはガチ。あずまんは村上さん。筒井さんは藤田さん。坂上さんは全員まとめて。受けと攻めとかの属性は個々人で捏造してください。まあどうでもいいことですが。さらに勘違いされると困るので説明しますと、これは『ゼロアカ道場』を腐そうということではなく、いわばデータベース的なゼロアカ萌えの同人活動みたいなもので。当事者の与り知らぬところで同人誌が売れてゆく様を傍観しているのではなく、むしろ『エヴァンゲリオン』が作中に同人的なパラレルワールドを導入することでコミケ層の興味を作り手に引き戻したように、こういった身も蓋もない妄言であろうとも本筋の活性化に還元させるくらいの、貪欲かつ大人な対応を望みたいものです。

2ちゃんねる哲学板の東スレでは「ニコニコと藤田は排除された」という意見が結構あります。それは壇上の道場生がニコニコ動画を観る事が出来なかったせいかもしれません。「藤田弾幕」を目の当たりにしていない彼らにその空気は伝わるはずもなく、ましてや自分たちのことがどう評されているかも分からないままでは、ニコニコ視聴者たちの影響をトークに絡められるはずもない。よもやそれを恐れてのシステムだった可能性すら考えられます。

それにしても社会的強者が弱者をいじめる構図にはうんざり。基本的に僕は強いものにしか刃向かわないので。やっぱり子供の頃のいじめられっ子が復讐している感じなんだろうか。だけど僕だって幼い頃はいじめられっ子だったのだけれど。それでも体を鍛えたりして暴力を振るわれるようなことはなくなった。かわりにねちねちと陰湿な陰口を叩く輩は結構いた。だから僕は相手が誰であろうと実名を晒して正々堂々と文句を言う。そして匿名で憂さを晴らしておきながら表面上は媚び諂うような人種とは相容れない。寺山修司の短歌の一節が脳裏をよぎります。「勝者には何もやるな! われに敗者の魅力はなきか!?」