小論文は得意だったつもりが。。。

講談社BOX主催『東浩紀ゼロアカ道場』は第一関門にて敗退。

敗因として考えうる理由は数あれど、とにかく本の内容が理解できなかったことが悔やまれます。内容も確認せずに前評判だけで選ぶべきではなかった。けっきょく何もアイディアが浮かばないまま終了時間ギリギリになり、適当に書いたメモを並べ直して無理やりまとめたもので、後になって読み返したら、支離滅裂な展開にして抽象的な印象論に終始するばかりの、お粗末な体たらく。

本選びの基準から時間配分の計算に至るまで、反省仕切りの一日でした。考えてみれば近頃、友人の映画や小説の感想文すら書けず、mixiのレスも放置している有様でしたから、すっかりレスポンス能力が退化してしまっていても、おかしくなかったのです。やっぱり日頃から書きなれていないとダメですね。

ゼロアカ 工藤」で検索して見に来た方がいらっしゃるようなので補足しておきますが、ゼロアカ道場の公式サイトに僕の名前はありません。ペンネームは「コナン・エドガー」。コナンの正体は工藤。。。というわけで。原文はこちらにあります。
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/kodansha-box/zeroaka/ronbun/31.html

明らかに意味不明な箇所や誤字脱字が多数あるのは、時間切れで読み返せなかったのと、思いついたフレーズを順不同で書いてから並び変える僕の文章の書き方のせいです。そんなこともあって誤字脱字や文章がつながっていない部分については、あまりにもひどいので修正した上で、ここにも載せておきます。原文は2,000字でしたが、改稿版は2,800字あります。

大まかな流れは変わっていませんが、文節を入れ替えたり説明を増やしたりしたので、少しは読みやすくなっているかと。なお執筆時に手元にあったのは『Self-Reference ENGINE』のみです。ネット検索用に用意されたPCで調べた部分もありますが、ごく一部を手書きでメモした程度です。あとは殆ど記憶に基づいて書かれているため、事実誤認などもあったら申し訳ありません。

ポストモダン分水嶺』コナン・エドガー(工藤伸一)※改稿版:2,800字

円城塔の『Self-Reference ENGINE』は、18篇のほぼ独立した短編からなる連作である。そこではタイムパラドクスの解釈や革新的数学定理の発見、巨大知性体の存在といった現実には到底ありえないようなSF的現象が、物理学的発想や哲学的考察を交えて幻想的かつユーモラスに語られるが、実はその語り手は、現実には存在しない構造物としての「Self-Reference ENGINE」なる計算機であることが最後に告白される。すなわち作者は、この作品が物語生成プログラムによるシステマチックな産物である、と主張したいのだ。

作中の構造物である巨大知性体が自らについて述べるという循環構造は、浅田彰が『構造と力』にて現代を表した「クラインの壷」を思わせる。一見ポストモダン的な手法にも思われるが、それは誤解である。なぜならクラインの壷を模したパラノイアックな欲望を充足させるメタフィクショナルな物語構造は、イデオロギーや歴史といった大きな物語が十分に機能していた近代社会を支えてきた「ツリー型思考」と表裏の関係にあるからだ。

いっぽう東浩紀が『動物化するポストモダン』で言うとおり、大きな物語の効力が失われたポストモダンの時代では、データベース的な非物語から好みのパーツだけが抽出され、フェティッシュな欲求に基づき物語が生成される。それはもはや物語の名を借りた「キャラクター萌え」の発露でしかない。しかしながらそこには、現実空間を超えた奇妙なリアリズムが存在する。

たとえば西尾維新の『DEATH NOTE ロサンゼルスBB殺人事件』は、死神がもたらした殺人ノート「デスノート」を巡る、共に正義感の強い天才少年である殺人者キラと探偵エルの、愛憎乱れた攻防を描いた人気コミックのノベライズだが、日本でキラを追う以前のアメリカ時代のエルに関するスピンオフ作品ということもあって、殺人ノートは全く出てこない。そのせいもあって捜査方法や犯罪のトリックに奇抜さはあるものの、良く考えてみると現実的に不可能な要素は一切でてこないという手法により、原作の世界観から巧妙に脱却している。

いずれも「ありそうでありえない/ありえなさそうでありうる」領域の反復という意味において、SFやミステリの本来的な系譜に連なるエンタメ性を有してはいるが、その発現のされ方にはフェチと萌えの近くて遠い乖離が散見される。この違いは作者の年齢にもよるだろう。1972年生まれの円城は近代的思考の残骸を背負いつつポストモダンにシフトしつつある世代だが、1981年産まれの西尾は生まれながらにしてポストモダン的な動物であった。

西尾作品は「ライトノベル」のカテゴリで扱われがちだが、現代思想系の雑誌「ユリイカ」が彼を特集することもある。これは「ライトノベル」あるいは「エンタメ小説」がハイカルチャーから興味深いということだ。西尾自身は、小説のジャンル分けを書籍のレーベルに過ぎないとして軽視しているようだが、円城はそうではない。

円城塔は、本書の出版にてSF作家としてデビューしながらも、新人文学賞の中でも格段の権威を誇る文藝春秋主催「芥川龍之介賞」への登竜門ともいわれる同社の「文學界新人賞」も受賞している。受賞作品は芥川賞候補となった。その後SF誌と純文学誌の双方に作品を発表してきた。新人文学賞は、現代のデータベース型動物には単なる一要素に過ぎないが、近代のツリー型人間にとって日本文学史という大きな物語よすがに小説表現に携わる者にとって、無視できないイデオロギーとして作用してきた。ポストモダン社会への過渡期ともいえる21世紀初頭の現在、世代交代はいまだ完了していない。

いっぽう西尾維新は『新青年』の系譜を継ぐと思しきカルト的要素の強いミステリ誌『メフィスト』の新人賞でデビューし、無類のベストセラー作家だが、いまだ無冠である。実際、西尾の著書によく引用されることからもわかるように彼に多大なる影響を与えた京極夏彦も苦節10年を経てのことではあるが、直木賞作家となったことから、いつかは直木賞を受賞してもおかしくはないが、今のところは不明である。

読みやすさの問題から読者層が違っていたりするので、売れる作品は直木賞で売れない作品が芥川賞と看做されることもしばしばある。ミリオンセラーになった綿矢りさは例外中の例外といえよう。実際、村上春樹島田雅彦は余りにも売れているがゆえに芥川賞から除外されてきたようなところがある。選考委員の顔ぶれにもよるが、最近の傾向をみても人気作家が選ばれるケースは半々といったところで、その印象は未だに拭い切れない。

販売数は劣るかもしれないが知名度は抜群な高橋源一郎もそうだろう。高橋はポストモダン小説の代表格ともいえる小説家としてはもとより、文芸批評の分野でも文壇に貢献度の高い作家だったが、無冠だった。その救済措置として新潮社が三島由紀夫賞を創設したのだという噂も広まっている。純文学系の文学賞だから、円城塔西尾維新より三島賞に近いところがある。

とはいえ、かつて純文学とエンタメのジャンル越境を意識的に横断した「中間小説」といわれる作品群があり、江戸川乱歩が編集に携わった『新青年』などが有名である。そこから夢野久作など多くの異才が飛び出した。三島もそのムーブメントに敏感に反応し、自らもカテゴライズを拒むかのような作風に貪欲に挑んだ。

その精神はメフィスト賞西尾維新を見出した太田克史が編集者を目指すきっかけとなった、伝説の編集者・宇山日出臣の尽力によって講談社文庫に収録された中井英夫『虚無への供物』にも連なり、講談社ノベルス及び『メフィスト』を経て、西尾が現在活躍中の「講談社BOX」にも受け継がれているに違いない。そこに純文学とエンタメあるいはSFとミステリを隔てる明確な壁は既に存在していない。

DEATH NOTE ロサンゼルスBB殺人事件』が過去のミステリ作品へのオマージュに満ちたパロディ=ミステリ小説史のシミュラークル的存在であるのと同様に、『Self-Reference ENGINE』もまた過去のSF作品へのオマージュに満ちたパロディ=SF小説史のシミュラークル的存在であるといえよう。その歴史は自己言及的な永久機関として時を超え空間を歪めながら、罪を重ねつつ推理し逮捕する。

このようにして考えてみると、純文学とエンタメあるいはリアリズムとロマンティシズムの狭間を漂流するミステリとSFは、まるで双子のような関係に思える。これらの作品は各ジャンルの最先端であろうとするがゆえに伝統を踏襲せざるを得ず、新しさと古めかしさの共生した「ありそうでありえない/ありえなさそうでありうる」両義性を持ったポストモダンの現在を象徴している。

西尾が小説の真理を求めてコミックノベライズというエンタメの極北に行ったのにたいし、円城は純文学とSFの間を揺れ動く振り子である。いつかジェネレーション・ギャップが補完され、本当の意味においてポストモダンが大勢となった暁には、双方とも同じ場所にたどり着いてもなんら不思議はない。そこに文学のよろこばしき未来があることを期待したい。(了)