宗教と性愛にまつわるエトセトラ

意味深なタイトルをつけてはみたものの下世話でしょーもない内容かもしれませんが、大抵いつもそんな感じだったりしますので、どうぞご勘弁ください。宗教と性愛というのは僕の二大テーマだといっても過言ではありません。とりあえず細かい説明は省きますが、大学で心理学と社会学のゼミに在籍していたのも、そしてシガラミから逃れんとして中退してしまったのも、その後フラフラしているのも、決してこれらのテーマと無縁ではないのです。さてそんなわけで、最近ちょっと気になった宗教と性愛にまつわるエトセトラをかいつまんでみることにしました。

まずは大相撲時津風部屋の門下生虐待死問題。「かわいがり」という用語が薄ら怖い。相撲は日本の国技なわけですが、元をただせば宗教上の儀式。ちょっと前に女性が上がろうとして問題になりましたが、土俵が女人禁制の聖地とされているのも当然のこと。まさかとは思いますが、あの一件が今回の事件につながっていたりなんて考えるのはオカルトすぎでしょうか。

それにしてもこの「かわいがり」という言葉に、どうにも尾籠なイメージを感じざるを得ません。ティーバックの廻しだけを身に付けた半裸の猛者どもが組んず解れつするわけで、いわゆる801ですわな。耽美な薔薇族やマッチョなサムスンというより、サブの世界? ある種の性癖を持った神々への供物、というようなコンセプトに裏打ちされたプロモーションだった可能性も否めないのではなかろうかという按配です。そう考えると一枚の布を巻くだけの廻しという装束がまるでプレゼント用のリボンのようにも思えてきます。女学生のリボンやサラリーマンのネクタイも性的嗜好の対象とされる場合も少なくないようですが、一枚布を巻きつける習慣からして宗教的儀式に通じる気もします。

次に、比叡山延暦寺大乗院の住職・星野円道さん(32)が、9日間寝ず飲まず食わずで読経し続ける難行「堂入り」を達成したというニュース。戦後12人目の偉業とのことで失敗して死者も出ているのだろうかと気になった次第。それにしても1週間以上ですからね。徹夜や絶食は当然のことながら、水も飲まずに読経し続けるだけでも信じられないことです。しかもこれ大阿闍梨の尊称を得られる「千日回峰行」という修行の一部とのこと。ファミコン世代の僕なんかだとつい、まるでロールプレイングゲームのレベル上げみたいだと思ってしまいます。

しかしテレビゲームが宗教的儀式に着想を得て開発されたものだと考えるなら、あながち無関係でもないかもしれません。最近流行の脳ゲーは違うかもしれませんが、基本的にテレビゲームで遊ぶことは非生産的な行為です。遊びそのものが創造的行為だというような意見もあるかもしれませんが、それはとりあえずおいといて、宗教も基本的に生産性と一線を画す点において重宝されてきた歴史があります。実際には金儲けしていないわけではないでしょうけれど、営利目的ではないという前提で、宗教法人は法人税を免除されているわけです。

さてここで「非生産的」という宗教的儀式のキーワードが、女人禁制の土俵とリンクすると思うんです。ゲイカップルは子供を作れませんから、生物学的に非生産的存在なわけです。あくまで生物学上の話ですから、現代医学で男性が出産できたり、養子縁組したりというケースは考えないでください。芸術家肌のゲイの方は生産的だというのも、また別の話です。とにかく「非生産的」であることが宗教的儀式の要と考えたならば、女人禁制というのも頷けます。裸の男女が組んず解れつでは、子供ができてしまいかねません。そうすると「土俵」とはどういう場所なのか。仮に子宮の中で精子同士が争っているような構図だとすると、神の卵子と結合することを目的とするのかもしれません。そうであるならば、やはり女人禁制でなくてはいけません。

比叡山の修行の場合はどうでしょう。マゾヒストなんじゃないかという程に自分を痛めつけることで仏界に至らんとするのもまた、倒錯的性癖を持った荒ぶる神へのアピールに思えます。仏教なのに神? という質問も出そうですが、神仏習合の歴史がありますからね。それに阿闍梨というのは皇室との所縁が深い尊称とのこと。厳しい修行に耐えうる並ならぬ心身の強靭性を証明することで聖地に赴くことを許される様は、まるで宇宙飛行士のよう。宇宙とは即ち人知の及ばぬ神仏の領域に他なりません。

ところで倒錯的な性癖ばかりが宗教的儀式の全てというわけではないでしょう。かといって普通の夫婦生活では生産的になってしまいます。見るだけの片想い的な性癖なら、宗教的儀式のエッセンスに含まれるかもしれません。たとえば本来なら神々を喜ばせるはずの巫女が、今やアキバ系男子を萌えさせているのはどういうことなのか。

「おかえりなさいませ、ご主人様!」とお出迎えしたりしてくれる「メイド萌え」同様に、自分を神の立場に置き換えて滅私奉仕してほしいと妄想を働かせる破廉恥な動機もなきにもあらずですが、生産的な仕事としてのメイドよりも神に全てを捧げようという姿勢に強く惹かれる傾向は考えられます。何よりメイドとご主人様は奴隷でもない限り一時的な契約上の関係でしかないのに対し、宗教は基本的に終身プラン。そもそも神道は宗教なのか? という議論もありますが、ここでは問わないこととします。巫女は派手なメイクや華美なアクセサリーはご法度。そういう意味では、処女崇拝に基づく萌えポイントなんでしょう。これを西洋文化に求めるなら、メイドというより修道女なんですよね。

ともあれヲタクと神の嗜好の符号は、何を意味しているのか。もしかして神はヲタクだったのか。それともヲタクが神になったのか。資源の乏しい日本が誇るジャパニメーション産業の発展に多大なる貢献を果たした手塚治虫藤子不二雄宮崎駿宮本茂といったカリスマたちは、確かに崇拝の対象となりうる神のような存在です。しかし作り手ばかりではなく、金に糸目を付けずにその手の業界を愛してやまないヲタクという人種そのものが、既に神の領域の住人なのかもしれません。

少なくともジャパニメーションの要である2次元世界の表現の場は元はといえば「書物=紙」ですから。別にダジャレというわけではないんです。わかりやすくあえて「紙」と書きましたが、要はメディアそのものが宗教と深く関わっているわけです。世界で一番売れている書物は聖書ですし、メディアの語源はギリシャ神話の神の名前です。同様に性愛をモティーフとしたメディアもまた、不況知らずのジャンルです。ここに秘密があるんじゃないでしょうか。詮ずる所、生殖を目的としない性愛こそ、宗教的イニシエーションなのだ! ……なんて結論だと、まるでカルト教団の教祖みたいになりかねませんので、もう少し考えますw

。。。以降追記予定(07/10/22 20:20更新)