長崎の事件について

人権が守られるべきなのは加害者ではなく被害者ですから、被害者名も被害者の顔写真も報道されるべきではありません。被害者の人権を侵害しているマスコミが加害者の人権を擁護するような発言をしているのは笑止なことです。


加害者が愛読していたというバトロワは、憎み憎まれ殺し殺されることの悲しみの心情を描いた作品ではありませんか? そのためにリアルで痛みを感じさせる表現を用いたのです。いわば戦争批判小説ともいうべき代物です。ですからバトロワファン=残酷な人格障害者というわけではなく、作品のテーマを理解できず細部の残酷描写のみに感化されるというその時点ですでに人格障害は始まっているのでしょう。


それにバトロワはあくまでも想像の世界を描いたフィクションですが、むしろ現実社会において行われているノンフィクションの戦争報道、こちらのほうが現実に人を殺すことへの罪の意識をマヒさせている、そういう可能性を考えてみてもいいのではないでしょうか? 自らの自分勝手な正義を貫くために安易にイラク人を殺しまくるアメリカ。そのアメリカを支援する日本政府。そこで義務教育を受けている子供が、自らの自分勝手な正義を貫くために安易に人を殺す。全く自然な流れです。


バトロワの残酷描写には海外の戦争小説や国内外の事件などから引用されたと思しき部分が結構あるように思います。実際に人を殺したわけではないのですから、想像を膨らませて書くしかなかったのは当然のことです。そうはいってもバトロワの著者がサディスティックな性質の持ち主であっただろう点だけは否定できません。もともと新聞記者だったわけですし、その頃から猟奇事件の取材に好奇な視点を持って接していただろう可能性もあります。えてして報道関係者のなかには、そういう部分があるのかもしれません。しかしバトロワの著者は、それを良心的なテーマの中に閉じ込めて、フィクション造りに昇華させることができたという意味で、常識人だったわけです。


そもそも本や映画というものは、偶然に享受してしまうおそれのあるものではなく、読者や視聴者が能動的に動かなければ目には入らないものですから。それに対してテレビのニュースというものは、偶然に目に入ることが多いものです。ですから本や映画より以上の不特定多数への影響に配慮する必要があります。報道関係者が体を張って仕事をしているのが悪いことだとはいいませんが、たとえば「首を切る画像がネットで流された」なんて言い方をする必要はありませんし、被害者の傷が深さ10センチだったなんてことも報道する必要はないはずです。それこそ徒に市民の好奇心を刺激するサディスティックな行為だと思うのです。