掌篇『宇宙的恐怖を克服するために』1,169字「第7回 てきすとぽい杯」13作品中8位

 宇宙が恐くなったのは、いつからだろう。子供の頃は宇宙への感心が高く、児童向け百科事典の宇宙に関する巻を何度も読み返していた。当時は自分の知っている世界が狭すぎて、宇宙と地球と日本列島を隔てる垣根がなかったから、おそらくそのせいで宇宙だけを特別視することがなかったんだろうと思う。けれども大人になって以降は、自分の住む国や海外の地理や歴史を熟知するようになり、外宇宙だけが人智の及ばぬ理解不能な空間として残されることとなった。

 もちろん地球に関する知識にも曖昧な点は数え切れないほどあって、それは今後も大きく減ることはないだろう。とはいえ人類の住む場所は有限であり、ジャングルや深海などといった人の暮らせない領域についても、今や大抵のことは想像できる。そういう意味では地球を含む太陽系など、宇宙の中でも身近な地点のことは分かっているため、さほど恐くはないとも言える。問題なのはそれらの星を擁する銀河系も有限なものであり、その外側には無限の何かが広がっているという、どうにも理解しがたい事実だ。すなわち宇宙的恐怖とは無限への畏怖に他ならない。

 ビッグバンによって我々の住む宇宙そして地球が生まれた。その外側には別の宇宙が存在しているらしいことも何となく分かる。ところがどこまで考えを巡らしてみても、外側の更に外側にも何かが存在していることとなり、無限という概念を否定することはできない。そしてその無限は空間のみならず時間の流れにも共通している。いや、難しい話はここまでにしておこう。どうせ僕には分かりやしないのだから。

 もっと具体的に考えてみると、高校の時は天文部員だったから、宇宙に恐怖を感じることはなかった。そうするとそれ以降に何かあったのだ。何があったのか突き詰めてみたいところだが、どうにも記憶がはっきりしない。2ちゃんねるに「宇宙こわい」というスレッドが立ち、1レス目に「超ひろい」と書かれていたことがある。稚拙なようでいて真理を突いているという点で、今やもう伝説的な書き込みといっていいだろう。それを読んだから恐くなった可能性もなくはない。

「超ひろい」つまり「無限」なのだ。けれども自分の命が有限であることもまた恐いので、何だか矛盾している。無限も有限も等しく恐いなんてことがあるだろうか。さておきこの文章を投稿するための時間も有限なので、何とかしなくてはならない。明日の選挙でどこかの政党に清き一票を投じるために必要な時間も、もちろん有限だ。もし投票期間も無限だったなら、政治は立ちゆかなくなる。けれども時間は無限なのだから、結局のところ政治は無限に続くようにも思われる。地球に残された時間は有限だけれど、時が尽きる頃には他の星にでも移住していることだろう。そこまで考えて投票したいものだが、それは余りにも難しすぎる。終わりだ。(了)

掌篇『眩暈の果てに』1,503字「第6回 てきすとぽい杯」13作品中7位&高濃度文体賞

 緩やかに流れる有刺鉄線の間を潜ろうとして血まみれになった身体の置きどころに困り果てた挙句に脳味噌まで蕩けそうな熱気にやられ、むしろその脳が世界の空気を沸騰させているのだと気付いたが故に血潮が蒸発するのも無理はないのだからと思えば何もかも合点のゆく塩梅なのだからして、これより先に起こりうる全ての可能性を排除してもなお倦怠感を払拭することもままならぬまま、ただ徒に人生の過ぎゆく様を俯瞰するより他に術もなく時代は倒錯し続けるのだった。

 だからといって別に手応えがなかったわけではなく、このようにして気を遣わせてしまったことへのせめてもの御礼を兼ねて水脈の元を辿ってみたらば、棘だらけの道筋を歩まざるを得ぬ事態から逃れることは出来なかったのであり、かつては存在したはずの遊歩道の痕跡を探す手立ては最初から諦めていたにしても、このまま進み続けるためにはもう残りの血液からして足りないのは十分に理解しているのだから。

 とりあえず行けるところまで行こうとする意志すなわち思考から解き放たれた自由な精神の方向性に従うことの大切さを今更ながら思い知りつつも、自らの内臓を滋養として食み蝕む虫のように脆い関節の痛みなど感じないふりをして、この目論見を企てた陰謀の深淵の奥底に潜む不断の決意を蹂躙するような心持さえ忘れなければ。

 いかに空間を移動することが不可能だとしても精神世界の暗闇に果てなどあるはずもなく、いっそ深く瞑想して時間を遡る手法を用いれば済むことは予め知っていたというのに、あえて目に視える形で実践せねばならぬなどと息巻いてしまったのが運の尽き突き弾く皮膚の感覚それだけに意識を集中して、何も畏れることなど無かった子供の頃の無垢な魂を取り戻したい一心で斯様に無様な様態を呈してしまった幼形成熟の指先にまで沁み渡る悔恨の厳格さに眩暈は止まず。

 見栄は肥大するばかりで見る影もなく張りを失って海水と血液が混濁して鱗を潤す瞬間に希望を託し、もう宝箱には何も残っていないからといって開けずに済ましてきた過去を呪う戒めの代価として、大腿骨の辺りに充満する草木の焼ける匂いに咽び泣く純粋な日々など過ごしたこともないというのに。

 左右の見地から中央に寄りがちな政治的配慮さえ気にしなければ、倫理的欠如など血尿ほど薫る立ち上る納涼の彼方に聳える聴こえる消える時にこそ絶頂に至る快楽の浅ましさに耽る不愉快な演説など容易くて、今から最後まで突っ走る原動力として霞みながら砕ける流氷の冷たさ儚さ憎めなさ情けなさ。

 空洞の図像を思い浮かべながら無償の憎悪を恋人に送りつける世間体の耐え難き有難さ、数行目には潰えてしまう命の宿り木に凝り固まった地層の連なり、使い捨ての眼球を瞠る如き恒星の軌道の妖しい勇ましさを讃える数式の甘美な響き、味わいも見境もなく舌先に吊るされた縄紐の目の粗い繊細な緊張感、そしてその偉大な功績なればこそ。

 引き出しながら落ちていく物語を伝え這い蹲る地点の抵抗を寸止めにして、科学の未来を占う美学を磨く見縊る通じない遺伝子の向こうから不意に噴き出す不満の料簡、利権は唐突に終りを告げ包み隠さず罪深く爪先の綻びを隠すことなく乱すべからず迷う逃亡者の痕跡から漂う臭気に含まれた現在進行形の終末。

 未遂のまま続く虚構の悪びれない様相に抱かれながら、未必の身柄を構成する両極の磁力に反発する三人称複数の語族・貴族・家族、いずれの集団にも共通する概念の記念碑的な自動化された幻聴の気味悪さ、言葉を尽くさんとて筆舌の溜まり場に吹き荒ぶ野心を持て余す淫らな質感さながら、面目を潰す理念は禁断の地域への言及なくして甚大なる虚飾に極まれり。(了)

掌篇『ガリレオ・ガリレイとガガーリンとガリガリ君とガリガリガリクソンについて』924字「勝手に連動 第5回ぽい杯スピンオフ賞」5作品中4位

 ガリレオ・ガリレイガガーリンは、僕の投稿した『地球は丸くなかった!』に出てきます。そこにガリガリ君ガリガリガリクソンを登場させることによって、スピンオフに出来たら良いのだけれど。なんて思いつつ書くことにしたものの、いったい何をどうすれば良いものやら。とにかくガリガリ君ガリガリガリクソンについて書きます。

 ガリガリ君はアイスキャンディーなので、形状としては箱ですよね。しかしながらガリガリ君はアイスキャンディーなので、溶けてしまったら箱じゃなくなってしまうのが可哀想。箱じゃなくなることを悲しむ理由は分かりません。しかしながらガリガリ君はアイスキャンディーなので、ジュースになってしまうと「ガリガリ」音を立てて食べられなくなっちゃうから、もうそれはガリガリ君とは言えません。

ガリガリ君リッチ」の「コーンポタージュ味」が話題になった時、それにお湯をかけて本当にコーンポタージュになるなんて話がありました。しかしながらガリガリ君はアイスキャンディーなので、そんな邪道は出来るだけ避けてほしいものです。しかしながらガリガリ君はアイスキャンディーなので、ガリガリガリクソンなるお笑い芸人とは関係ありません。

 ガリレオ・ガリレイは「ガリガリ君を食べるなら、はちみつレモンスカッシュだよね!」と主張して裁判にかけられました。けれどもガガーリンは「やっぱりガリガリ君ソーダ色だった!」と宇宙から見た感想を率直に述べることによって、人々を感動させたのです。

 別にガリレオが悪かったわけではありません。「はちみつレモンスカッシュ味」は実際にありますから。しかしながらガリガリ君はアイスキャンディーなので、昔ながらのソーダ味のイメージが強すぎるんですよね。そこにガガーリンの発言も加わることによって、そう考える人が増えたのは確かです。

 しかしながらガリガリ君はアイスキャンディーなので、ガリガリガリクソンのように「ガリガリガリ!」と触感を愉しめさえ出来れば、それがどんな味なのかなんて何の問題にもなりません。しかしながらガリガリ君はアイスキャンディーなので、全く噛まずに舐めてしまうのは如何なものでしょうか。しかしながらガリガリ君はアイスキャンディーなので(以下略)

掌篇『地球は丸くなかった!』2,181字「第5回 てきすとぽい杯」10作品中5位&新・地球論賞

「地球は丸かった!」と言った宇宙飛行士の名前を調べようと思ってネットで検索してみたら、実は「地球は青かった!」という宇宙飛行士ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンの台詞を間違えて覚えていただけだった。とはいえ僕の他にも「地球は丸かった!」だと思い込んでいた人の書き込みを見つけたので、もしかすると本当に誰か有名人が使った言葉なのかもしれない。

 今の所それが誰なのか判明していないけれど、地球を中心にして他の天体が動いているとカトリック教会が信じていた「天動説」に逆らい、地球も他の星と等しく動いている天体のひとつに過ぎないとする「地動説」を唱えた天文学者ガリレオ・ガリレイが、教会によって裁かれた際に言い残したとされる「それでも地球は動いている!」と混同したのではないか、という回答が「Yahoo!知恵袋」にてなされている。

「言い残したとされる」という曖昧な書き方をしたのは、本当にガリレイがそういったのか議論があるらしいからだ。しかしこのセリフに関しても僕は記憶違いをしていて「それでも地球は回っている!」だと思い込んでいた。しかもネット上にはそのような記述も見られることから、そうするとこれもやはり影響力の強い誰かが使ったフレーズなのではなかろうかと考えている。

 いずれにせよその言葉が発せられたという逸話からして疑われてしまっているとなれば、どっちの言葉が正確なのかと考えてみても無駄ということになる。それは冒頭の「地球は青かった!」にしても同じで、正しく訳すなら「青みがかっていた」程度の表現だったとウィキペディアには書かれている。のみならず「円光」なる言い方をされていたとする記述もあり、それが真実なのであれば「地球は丸かった!」と言っているも同然ということになるが、しかし残念ながらそこには「要出典」のツッコミがなされているため、実際の所は分からない。

 そのような次第で「地球」がどのようなものであるかについて僕の記憶は当てにならないのだけれど、どうやらそれは僕だけではないことだけは確かであり、そのようにして考えてみると、そもそもガリレオガガーリンが用いたとされる印象的な名言というのも、果たして本当に実在していたのか怪しんでみることもできるだろう。つまり当人や周囲の人間の記憶も信頼性に欠けるかもしれないということだ。

 そして何故そのような事態が引き起こされてしまうのかという段に至って奇妙に感じられるのは、われわれ人間もまた自分という個体を中心にして世界の方が勝手に動いているとする「他動説」とでも呼ぶべき感覚と、そうではなく自分自身もまた他の物質同様に動き続けるとする「自動説」の対立構造があるのではなかろうかという疑惑を拭えない事実である。本当にそのようなものがあるのか分からないのだから、それを事実と呼ぶのもおこがましいが、少なくとも僕自身はそれを事実であるかのように信じてしまっているのだから、とりあえずそう表記するほかないのである。

 ここまでこうして編み出された文章の軌跡は、そんな覚束ない現実認識に寄って描かれているに過ぎないものだから、幾らどんなに「事実だ!」と主張してみたところで、あくまでもそれは僕の脳内にしか存在しない主観的な構想に過ぎない。などと自己分析できているからには、いちおう客観的な見方も出来ている可能性は否定できないが、このように観念的な発想は、深く広く思索の限りを尽くした哲学者でもない限り、強い説得力を持ちうることはできないため、早々に諦めた方が得策だろう。

 それでも地球は回っているのだから丸くて当然に思えるけれど、さきほど言ったように人間もまた地球と同じようにして運動しているのであれば丸くなくてはいけなくなりそうにも思えてくるものの、やはりこれまた何の根拠もない空想であり、人体が総じて球体であるなんてことはありえない。しかしそれは動いていない状態を想定しているからそう言えるのであって、素早く動き続ける人体ならば、傍目から見てそれが球体に見えても何ら不思議ではない。

 そのようにしてまた振り出しに戻ってみると、実は誰も言っていなかったかもしれない「地球は丸かった!」という言葉にもそうではない疑惑が浮上してくるのをどうしても禁じ得ないのだから困ったことである。すなわち地球は高速で回転している限り球状に見えるものだけれど、もしそれを止めることが出来たなら、実際には四角いと考えることもできるのだ。ならば「地球は丸くなかった!」そして「地球は四角かった!」と言う者がいたとして、それを否定することは難しいのではなかろうかというような戯言を信じてみたくもなってくる。

 地球が四角いのなら人間が移動する際にその角の部分で落下してしまうような気もするけれど、地球には大きな重力があるから形状がどうであろうとそのようなことは起こらない。なおかつそれはルービックキューブのようにして複雑に絡み合う立方体が、地球を動かすのと同じ力の作用によってあらゆる現象を組み換えながら、正しい組み合わせを求めんとする強い意志に導かれて、万物を四角たらしめる行程の最中を漂う我ら人類もまた、四角いロボットのような無意識を併せ持つ地球の子供にすぎないのだった。なんて夢想をしながら今夜も、四角い朝に向けて、四角いベッドで眠るのだった。(了)

掌篇『悪文正機説』4,911字「我ながらホレボレする文体を自慢する大賞」12作品中10位

「文体障碍者」になってから二〇年もの歳月が過ぎた。もはや人生の半分を越えてしまった今となっては、健常者だった頃の自分が別人のように思われてならない。当時を懐かしんでみたところで元の文体に戻れるわけではないし、考えても無駄だ。文体障碍は見た目だけでは健常者との区別が難しいため「努力が足りない」などと差別的な叱咤を受けることもしばしばある。

『惜日(せきじつ)のアリス』で小説家デビューを果たした坂上秋成さんは、ゼロアカ道場に参加する前、講談社の文芸誌『群像』主催の新人賞で最終選考まで残り、選考委員の多和田葉子さんから「文章が立体的」との評価を得ていた。すなわち文章が平坦なのは良くないということである。

 映画化もされたヤマザキマリさんの漫画『テルマエ・ロマエ』は、古代ローマ人の風呂職人ルシウスが現代の日本にタイムスリップする話だが、ルシウスは初めて見た日本人のことを「平たい顔族」と呼ぶ。古代ローマ人は彫りの深い顔をしているからそれは当然のことだ。しかしそれを書いている作者もまた平たい顔族の一員である。

 遺伝病を防止するためにも遺伝子の構成要素は出来るだけ離れていることが望ましいとされることから、濃い顔と薄い顔のカップリングは最適だ。ヤマザキマリさんが西洋人と結婚したのも、そういう点で良いことだ。東洋人が西洋人の立体的な顔立ちに憧れるように、西洋文学の影響を受けた近代以降の日本文学も立体的であろうとしてきた。すなわち身体と文体は密接な関係にある。

 そのようにして考えてみた場合、こうしていま書かれているこの文章が立体的ではないことに書き手自身も落胆せざるを得ないけれど、つまりこれこそが文体障碍による弊害なのである。だがしかし障碍は誰にでも起こりうる不運にすぎない。そこで産まれた思想が「悪文生機説」というのものだ。それは仏教の「悪人正機説」から来ている。

「仏教によって救済されるのは悪人だけ」とする「悪人正機説」は、仏教の一派である浄土真宗の教義として知られているが、その根本になっている「悪人の自覚」は、誰しも人間は我欲まみれの凡夫=悪人だとするもので、それは宗派を問わず仏教の教えの中に頻出する発想でもある。それを哲学上の問題にたとえるなら、そもそも人間は悪人だとする「性悪説」と同様であり、他の宗教においてもキリスト教の「原罪」すなわち「エデンの園を追われた罪深き者の子孫」というような考え方にも重なるところがある。

 フジテレビ系列のバラエティ番組『ホンマでっか!?TV』にて心理学者の植木理恵さんが「文章に変なところがある方が学術論文の信憑性が高まる」という不思議な現象について語っていた。ソースは確認できていないが、興味深い話だ。このような作用は小説においてもあって、たとえば『リアル鬼ごっこ』の悪文は有名である。しかしその愛読者は文章のおかしさは気にならないという。普段は小説を読まない層に支持されたという説もある。

 石原慎太郎の小説も悪文だと言われる。芥川賞を受賞した『太陽の季節』においても「奇妙な解説がところどころ入る」ことに関して疑問が呈されていた。作者の意見あるいは神の声みたいなものだろう。特撮ヒーロードラマに出てくる「解説しよう」というナレーションへの影響があったりもするのだろうか。まあとにかく登場人物のセリフではなく、地の文を構成している語り手は誰なのか良く分からないものだ。話者=作者と考えることもできるが、それが当然なのであれば同じスタイルによって書かれてきた膨大な数の小説は全てメタ・フィクションなのかもしれない。

 そのような見解から本文のスタンスを鑑みるに、現状これは小説とは言い難い。この問題について釈明するために書いておきたいことがある。芥川賞は主にプロ作家の作品を対象とする新人賞として認知されているが、黒田夏子さんが史上最年長の75歳で受賞した『abさんご』目当てで購入した『文藝春秋』2013年3月号には、戦後の史上最年少23歳で『何者』により直木賞を受賞した朝井リョウさんの対談が掲載されている。

 通常なら純文学を対象にしている芥川賞の選評および受賞作やインタビューは『文藝春秋』に掲載され、エンタメ小説から選ばれる直木賞に関する情報は『文藝春秋』と同じ株式会社文藝春秋が発行する『オール讀物(よみもの)』が手がける。ただし直木賞は、文芸誌に掲載された中編程度の作品がノミネートされる芥川賞とは違っていて、既に単行本化されている長篇小説から選出されるため、雑誌に掲載されるのは作品の一部のみだったりする。さらに文藝春秋から出ている『文學界』は純文学の専門誌なので、そこに載るのも芥川賞に関するものだ。

 ではなぜ朝井リョウさんの対談が『文藝春秋』に使われたかというと、それは大学を卒業したばかりの彼が堀江敏幸さんのゼミに所属していたからである。堀江氏が芥川賞を受賞していることもあって、師弟対談が『文藝春秋』にて催されることとなったように思われる。その堀江氏が『熊の敷石』にて2001年に芥川賞を受賞した際の選評に「これは小説ではなくエッセイなんじゃないか?」というような疑問を投げかける選考委員がいた。

 三浦哲郎池澤夏樹の二人が「エッセー」という表現を使っている。しかしながら結局は受賞作となった。すなわちエッセイと小説の境界線上にあるような作品が純文学として認められたわけである。ならばどんなにそれがエッセイ的な書き方をなされていたとしても、だからといって小説ではないと考えるのは認識が古すぎるということだ。

 以上の点から小説の体を為していないように思われる本作が、それでも小説として読める可能性があると僕は主張したい。ついでに『abさんご』にも触れておこう。『abさんご』は「全て横書き」「読点ではなくカンマを使う」「句点のかわりにピリオドを使う」「本来なら漢字で書かなければ意味を捉えにくいはずの熟語などを平仮名で書く」といった奇妙な書き方が導入されている。

 その結果として日本語で書かれているのに海外文学を読んでいるかのような不思議な感覚に襲われる。それは著者が長らく校正を仕事としてきたこととも関連しているのではないかと言った指摘もある。物語それ自体は私小説的な、いかにも純文学といった風情を感じさせるところがあるため、これが普通の書き方をされていたなら、凡庸な作品になっていたかもしれない。でもだからこそ文体を工夫して勝負をかけるしかなかったのだろう。

 とはいえ気になるのは「横書き」の効用だ。かつて日本語で書かれてきた小説の多くは「縦書き」だったが、インターネットが普及した現代において「横書き」の小説は全く珍しくない。それはネット接続に使用されるブラウザが「縦書き」表記に適していなかったり、他にも様々な事情が考えられる。その一方で日本語は「縦書き」で表現されるべきだという考えを持つ者は数多くいて、電子書籍は「縦書き」で読めるようになってきた。

 そういった文章表現の過渡期において、あえて「横書き」を使った『abさんご』の芥川賞受賞は大きな事件だったといっていいだろう。もちろんそれ以前にも、国語以外の教科書や参考書の類、あるいはケータイ小説が「横書き」のまま書籍化されたりする事例はあった。けれども国語の教科書はあくまで縦書きだし、さらにこれは当たり前すぎて忘れがちに思われるが、マンガに出てくるセリフやナレーションも縦書きだ。

「若者の活字離れ」というような話を聞くたび引っかかっていたのは、活字本とマンガの売上の大きな差が活字離れの実態を明確にしてきたにも関わらず、マンガに出てくる日本語は従来通り「縦書き」なのに、ケータイ小説が「横書き」というように、現代の日本文化は捻じれた構造を持っている。そしてその捻じれこそが、一部の特権階級によらない民主主義本来の政治を実現させるための必須条件と考えることもできる。右翼と左翼の二項対立というような古臭い概念は、今や崩壊しつつあるようにも感ぜられる。

 先日放送されたテレビ朝日系列の討論番組『朝まで生テレビ』の特集「ネット世代」だった。粉飾決算が問題となったライブドア事件により実刑判決を受けて収監され、仮出所中のホリエモンこと堀江貴文さんを筆頭に、ネットを使いこなしてきた若き論客たちの平均年齢は30代。そこで行われた議論にも旧来の手法が通用しなくなりつつあるような空気が漂っていた。

 その放送中、司会の田原総一朗さんが、パネリストとして呼ばれていた乙武洋匡さんに「失礼なことを承知の上で伺いたいのだが、その身体でどうやってネットにアクセスしているんですか?」というような質問をした。すると乙武さんは「僕の腕は肘くらいまであるので、その先端を使ってパソコンのキーボードやスマートフォンを普通に使えているんです」と答えた。

 彼の持つ障碍は「先天性四肢切断」というものだが、あくまでそれは通常より短いだけで、ウィキペディアに書かれているように「生まれつき両腕と両脚がない」という表現は正確ではない。歩行のため車椅子を使用しているものの、宇宙論などで知られるイギリスの物理学者スティーブン・ホーキング博士が「筋萎縮性側索硬化症」により身体を動かすことが困難になったのとは違う。ホーキング博士は声を出すこともできないため、特殊なキーボードを操作することによって論文を執筆したり、さらにそのキーボードを用いて合成音声でスピーチしたりしている。このように身体障害者と言っても症例によって異なる点があることを忘れてはならない。

 冒頭に挙げた「文体障碍」においても同様の複雑さがある。身体障碍といってもそれは身体が存在しないことではないし、精神障碍も精神そのものが失われるものではない。精神障碍の場合、アルツハイマー病など精神の一部もしくは大半が機能しないケースもあるけれど、それでもまだ他人とコミュニケーションをとれる限りにおいては、いかにそれが間違った認識に覆われてしまったのだとしても、人間としての最低限の意識は維持されている。正確には人間的な意識など最初からなかったとしても、ヒトは動物と戯れることができるように、命ある限りコミュニケーションが永久に断絶されるわけではない。

 それどころか僕らは、自分の意思を持たない架空のキャラクターや無機物に対してもさえ、愛情や同情といった感情移入の機能によって、同じ現実を共有する仲間意識を持つことが容易にできる。この構造に関しては文芸評論家の藤田直哉さんが、筒井康隆さんの小説や思想を軸として現代社会を論じた著書『虚構内存在』において詳しく書かれている。その概要を提示できれば良いのだが、今のところそれは難しいので、とりあえず紹介するだけにしておこう。

 いま日本で最も売れているマンガは、集英社マンガ雑誌週刊少年ジャンプ」で長期連載されている尾田栄一郎の『ONE PIECE(ワンピース)』と思われる。違っていたら申し訳ないが、多分そのはずだ。先ほど日本のマンガ表現における「縦書き」へのこだわりについて触れたが、それが活字表現と交差することによって、新しい日本語の効用が示される希望を担うものの一例として、前回しゃんさんが企画した「第一回 やる気が出るかっくいいプロット作り大賞」にて優勝した碧さんに贈られた称号「海賊王・碧」を、同じくしゃんさん主催による「我ながらホレボレする文体を自慢する大賞」投稿作における主人公の名前に使ってほしいと主催者が要望していると考えることもできるだろう。

 すなわち「海賊王」とは、国家や民族や語族といった垣根を乗り越えた場所に存在するものであり、僕ら人類が悠久の時を経て築き上げてきた言葉の海を縦横無尽に駆け巡りながら、吹き荒ぶ文体の嵐をも乗り越えて跳躍し、人智の未来を統べる地球の主人公として、僕らを新天地に誘う崇高な使命を帯びたキャラクターとして、君臨することだろう。なお「キャラクター」は「言葉」という意味も併せ持ち、文体の基礎的な要素でもあるのだ。(了)

掌篇『姫君と五人の侍』1,289字「第4回 てきすとぽい杯」21作品中7位

 炎上した城を追われて命からがら逃げのび、偶然に落ち合った侍は五人。山道は二つに分かれている。どの道を進んだとしても敵陣の刺客が潜んでいるだろう。勝ち目のないことを知った殿は抵抗を諦め、武将としての誇りを保つべく討たれる前に家族ともども自害した。その場に立ち会った家臣らは、殿の親族への遺言を託された。道中で落命した者は数多くいて、もうこれ以上の犠牲を出すことは出来るだけ避けねばならなかった。

 一人でも多く生き残るために一人だけ違う道を進む。連れ立った残りの四人はまた分かれ道に出会い、ここでも一人が道を選び、その後も同様にして五人は散り散りとなり目的地を目指した。いずれも既に相当の傷を負っていて、もはや戦うことは困難に思えた。けれども忠実な彼らにとって、主君の命令通り動く以外の選択肢はなかった。そしてその全員が道半ばで敗れ、主の遺志を伝える計画は潰えた、かに思われたが、そこで信じられない奇跡が起こった。その経緯を記したのが、この図である。

[※ここに挿絵]

 これを書いたのは殿と共に死んだはずの姫君だった。彼女は毒をあおって死んだふりをしていたが、それは毒物ではなく不思議な力を持つとして先祖代々に伝えられてきた魔法の酒だったのである。ならば他の家族も助けられたかもしれない。しかしその酒が効力を発するのは、殿を含め姫以外の家族らが亡くなるのと引き換えという条件付きだった。それは家族も承知の上で、姫にだけ酒を呑ませたのである。度数の高い酒ゆえ、呑んだ直後は姫自身、それを毒と信じ込んでいたこともあって、数分の間は気を失っていた。ところが一人だけ目を覚まし、毒の入っていた器が妖しい光を放っていることに気付いた。そしてその器に、それが魔法の酒であると書かれていたのである。

 姫は茫然とそれを見つめていたが、自らの意思とは関係なく近くにあった筆を手に取り、紙に書きつけたのが件の図であった。その途端、筆と紙は共に巨大化した。筆は西洋の魔法使いが使うホウキのようにして姫の身体を乗せて宙に浮いた。紙は姫の身体をすっぽり覆い尽くし、その姿を誰にも見られぬよう透明化させた。そのまま城外に飛びだした姫は、裏山の上空にて動きを止め、五人の侍がそれぞれ最後の死闘を繰り広げる現場に直面した。

 どうすれば良いか分からぬまま家臣の命を案じていたところ、姫を包んでいた紙が五つに分割され、それぞれの紙片が星・月・水・太陽・心臓の形状に姿を変えながら、金属質の武器として侍たちを加勢すべく、刺客どもを一網打尽にした。そして姫を乗せていた筆は六倍の大きさになり、六つに分割されて五人の侍を乗せ、武器と化していた紙は元通り柔らかくなって、家臣たちの姿を隠した。こうして姫と五人の侍は、殿の親族の待つ城へ驚くべき速さで到着し、元の筆と紙に戻ったのである。

 一連の出来事を姫と侍が話してみせたところ、魔法の酒は親族の城にもあることが分かった。紙片に記された星・月・水・太陽・心臓は五人の侍の名前と符号するものであると判明したため、彼らは城の守り神として、魔法の酒や姫君と共に丁重に遇されることとなった。(了)

掌篇『今回の応募作は全て僕が書きました』2,225字「第一回 日本法螺小説大賞」10作品中2位&山田賞

 題名に冠した応募作とは、この作品のみではなく、全ての作品のことです。作者名が違っているのは、複数のペンネームを用いたから。ここではTwitterのアカウントが作者名として使われているため、そんなことは不可能に思われるかもしれませんね。しかしTwitterのアカウントを取得した時点で既に、僕が応募者全員の意識を乗っ取っていたのです。

 そんなはずはないと皆さん思われるでしょうが、ツイートしたり応募作を書いた時に、それが本当に自分自身の言葉だったのかを証明する方法はありませんよね。もちろん僕が皆さんを操っていた証拠も提示できません。でもそれはどうでもいいことなんです。どうせ僕だけにしか理解できない領域ですから。

 そしてどの作品が大賞に選ばれようと、それは全て僕の手柄になります。上手く書けない腹いせに出鱈目を言っているわけではありませんよ。先程も申し上げたように全ての作者が僕なのですから、当然この作品の著者も僕が成り済ましています。さてそうすると僕の正体は誰なのか皆さん気になりますよね。

 実のところ余りにも長く生き続けてきたもので、自分の名前なんて忘れてしまいました。まあそれも僕の自作自演なんですけれど。そもそも僕は万物の創造主なので、自分の名前だって自分で名付けなくてはいけません。けれども最初に付けた名前は覚えていないので、とりあえず「神」ということにしておきましょう。これも人類が僕をそう呼ぶように仕組んだだけなんですが、割とポピュラーなニックネームなので。

 ところが「神」と言っても宗教などによって意味合いが違ってきます。いわゆる聖典の類も全て僕が書いたものですが、その時のフィーリング次第で考え方も変わってしまう気まぐれな性格だから、整合性とかどうでもいいんですよ。僕より偉い存在はどこにもいないので、誰かに咎められることもありませんし。いわゆるワンマン経営って奴ですね。

 経営といっても宇宙全体のことですから、細かいところは部下に任せています。彼らにも正式な役職名があるんですが、これも思い出せないので仮に「天使」ということにしておきましょう。何人か集まって話をしている時に、理由もなく全員が黙り込んでしまう瞬間を「天使が通り過ぎた」と言ったりしますよね。それは本当に言葉通りの現象で、彼らが皆さんの言動を操っている証拠のひとつです。

 彼らは余りにも優秀すぎるので、僕が自ら行動に出ることは滅多にありません。しかし何もすることがないと退屈なので、今回のように時おり出てきます。周囲に天使たちがいるなら話し相手になってくれそうなものですが、僕の代わりに何でもしてくれるイエスマンばかりなので、やっぱりどうしても僕の意思に逆らってくる者はおらず、孤独を癒してくれるほど面白い者はおりません。

 それじゃ流石につまんないので、反抗的な存在として「悪魔」を作ったのも僕です。きっかけは「週刊少年ジャンプ」という漫画雑誌を読んだところ、バトル物が人気だったからです。創造主が漫画雑誌の影響を受けるなんて時系列的に変に感じる方もいると思いますが、時系列なんて神にとって何の意味もないんですよ。

 それに悪魔の陣営は敢えて僕が制御できないように加工してありますから、自分で作ったにも関わらず滅ぼすこともできなくなってしまいました。創造主がコントロールできないなんて矛盾しているようですが、その矛盾という構造からして僕が組み込んだものなので、何の問題もありません。

 そういえば「神は死んだ」なんて誰かに言わせた記憶もありますが、それはタイトーから発売されたファミコンソフト『たけしの挑戦状』をクリアするために必要な操作が余りにも理不尽すぎて、攻略本を読んでも役に立たなかったことから、ユーザからのクレームが相次ぎ、攻略本の編集者が「担当者は死にました」などと言ってごまかしていたのを参考にしました。要は疲れていたのでソッとしておいてほしいと思ったわけです。

 これまた時系列が変ですが、先ほど申し上げたように、最新の情報を元にして過去の世界を変えるのは簡単なんです。ただしそれによって歴史の流れに不具合が発生する場合もありますから、そこは天使に命じて整合性を保つようにしてきました。先ほど聖典の執筆に際して「整合性なんてどうでも良い」と言っておきながら妙な話に思われそうですが、それこそ「整合性なんてどうでも良い」から矛盾していて当然なんです。

 どこからどこまで修正する必要があるのか、その日の気分次第で変わってしまうものですから、僕の無茶ぶりに付き合わされた天使たちは大変だったと思います。けれども不平を洩らす者は誰一人いませんでした。その気になれば役に立たない人材を消去することもできますから、それが怖かったのでしょう。

 僕の力は万能なので自分自身を消すこともできるはずなんですが、多分それを行うと世の中の何もかもが潰えてしまうため、興味はありつつも何とか我慢しています。僕がいなくなったら誰も僕を復活させられませんし、この世のあらゆる事象は僕の存在それ自体と一蓮托生なので、せっかく築きあげた世界のセーブデータを、単なる好奇心を満たすためにリセットしてしまうのは、勿体ないですからね。

 さてはて困った事に、ここまで全て本当のことばかり書いてしまっているので、このままでは賞の趣旨に反してしまいます。そこで最後にひとつだけ嘘をついておきましょう。僕は神ではありません。(了)