青春の終りは如月廿日、旧き佳き「ROMAZI NIKKI」読む啄木忌

四月十三日は石川啄木(幼名・工藤一)の命日・啄木忌とのことで、久々に歌を詠んでみました。16歳から26歳まで10年間ほぼ弛みなく綴られた「ROMAZI NIKKI」は、亡くなるふた月ほど前の二月二十日で幕を閉じます。


歌人として有名な啄木ですが、「ROMAZI NIKKI」は言文一致体による自然主義文学の最高峰として、現代日本文学の基礎を確立したと位置づけられています。以下、「ROMAZI NIKKI」からの転載です。


1912年(明治45年) 2月20日(火)


日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上がつた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
さうしてゐる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝつた。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。
母の容態は昨今少し可いやうに見える。然し食慾は減じた。


石川啄木 年譜 1912年(26歳)】http://www.page.sannet.ne.jp/yu_iwata/nenpu1909.html#A19124526


↓これはトリビアの泉で紹介されたそうです。


1909年(明治42年) 4月10日(土)【抜粋】


予は女の股に手を入れて、手荒くその陰部をかきまわした。しまいには五本の指を入れでできるだけ強く押した。女はそれでも眼を覚まさぬ。おそらくもう陰部については何の感覚もないくらい、男に慣れてしまっているのだ。何千人の男と寝た女!予はますますイライラしてきた。そして一層強く手を入れた。ついに手は手くぴまで入った。「ウーウ、」と言って女はその時眼を覚ました。そしていきなり予に抱きついた。「アーアーア、うれしい!もっと、もっと― もっと、アーアーア!」十八にしてすでに普通の刺激ではなんの面白味も感じなくなっている女!予はその手を女の顔にぬたくってやった。そして、両手なり、足なりを入れてその陰部を裂いてやりたく思った。裂いて、そして女の死骸の血だらけになって闇の中に横たわっているところ幻になり見たいと思った!ああ、男には最も残酷な仕方によって女を殺す権利がある! 何という恐ろしい、嫌なことだろう!


↓全文はここで
明治42.4.10
自然主義を論ず 死 ゆれる心
死だ! 死だ! 私の願いはこれ
たった一つだ! ああ!
http://www.echna.ne.jp/~archae/nikki/42-1.html#4/10


この翌日には与謝野鉄幹宅で催された歌の会に出席していますが、与謝野晶子に「徹夜で歌を作ろう」と言われたのを断り「つまらない時間を過ごした」とこぼしています。僕からすれば、かなりゴージャスな顔ぶれです。